宜野座村役場の西南西約150m地点に、めずらしい史跡が残されています。沖縄で、葬儀のときに、死者を納めて墓まで運ぶ屋形型の輿(こし)*1を保管する建物です。この建物のことを、龕屋(がんやー)と呼びます。
参照:https://www.city.tomigusuku.lg.jp/soshiki/8/1035/gyomuannai/3/2/1/378.html
場所:沖縄県国頭郡宜野座村字宜野座
座標値:26.480959,127.974245
▼案内板の後ろがわに龕屋が保存されています。
ガン屋は、むかしは村内の各集落に設置されていました。宜野座のガン屋は、昭和5年頃にコンクリート製の建物に改築され、火葬が普及する昭和30年頃まで使用されていました。
沖縄の伝統的な葬送は、風葬と呼ばれる方法で行われていました。風葬とは、遺体を洞窟や墓内に安置し、自然に白骨化するまで放置する方法です。その後、洗骨と呼ばれる儀式を行い、遺骨を厨子甕に納めて墓に安置していました。ガンは、この風葬の際に遺体を運ぶために用いられたものです。
宜野座のガン屋は、茅葺き屋根の簡素な建物でしたが、昭和5年頃に現在のコンクリート製の建物に改築されました。これは、沖縄の葬送文化が変化し始めたことを示す一つの証拠だと考えられます。
その後、火葬が普及し、風葬の習慣が廃れるにつれて、ガン屋もしだいに使用されなくなりました。現在、宜野座村に残るガン屋は、その時代をあらわす史跡として、村の文化財に指定されています。ガン屋は、沖縄の人々の死生観や信仰、地域社会のつながりを象徴するものだと考えられます。
参照:https://kaken.nii.ac.jp/ja/grant/KAKENHI-PROJECT-26580012
参照:https://www.city.tomigusuku.lg.jp/soshiki/8/1035/gyomuannai/3/2/1/378.html
参照:https://www.vill-nakagusuku-local-culture.com/?p=118
12年に1度の「龕ゴウ祭」250年以上前から伝わる 豊見城
かつて棺を載せていた龕(がん)と呼ばれるみこしのようなものを担いで集落を練り歩き、無病息災や豊作を願う12年に1度の伝統行事「龕ゴウ祭(がんごうさい)」が豊見城市で行われました。(中略)地元の96歳の男性は「こんなにたくさんの人が集まってくれてうれしい。若い人に引き継いでいきたい」と話していました。また、龕を担いだ34歳の男性は「地元が好きなので参加しました。ことし、子どもが生まれたので、12年後に一緒に参加できる楽しみが増えました」と話していました。娘を連れて来た地元の40代の女性は「自分も初めてですが、子どもにも見せたくて来ました」と話していました。
参照:https://www3.nhk.or.jp/lnews/okinawa/20240911/5090029235.html
ガン屋の内部には、朽ちてはいますが、龕(がん)らしきものも保管されていました▼
▼以下は、案内板の抜粋です。
宜野座のガン屋
「ガン屋」とは、葬儀の際に遺体を運ぶために使用される「ガン」を保管 する目的で建てられた小屋の事です。かつては松田・宜野座・惣慶・漢那の 各集落に設置されていましたが、現在、村内に残っているガン屋は字宜野座 のガン屋のみとなっています。 宜野座のガン屋はもともと茅葺の小屋でしたが、昭和5年頃に破風型の屋 根を持つコンクリート製のガン屋へと造り替えられ、その後、火葬が普及す る昭和30年頃まで宜野座区や福山区の人々によって使用されていました。 火葬が普及する以前、沖縄では遺体を洞穴や墓内に安置し、時間の経過と ともに白骨化させる「風葬」が一般的でした。風葬後2~7年を経て、遺体が 白骨化した頃に、家族や身内の女性たちが中心となり、大きな鍋に湯を沸かしてぬるま湯を準備し、布で遺骨を拭き清める「洗骨」が行われました。清めた骨は、足の部分から厨子甕 (ジーシガーミ)と呼ばれる蔵骨器に納められ、最後に頭蓋骨を一番上になる様に配した上で、墓内に安置されました。
宜野座村教育委員会 2022年
*1:龕(がん)ともいう。仏像などを安置する小さな厨子のこと。沖縄では棺を墓まで運ぶ朱塗りの輿のことを指す。