学生のときのかすかな記憶ですが、社会科の授業のなかで「輪中(わじゅう)」という言葉を習ったことをおぼえています。輪中というのは、洪水から守るために、周囲に堤防を築いている集落のことだと記憶しています。最近、拝読した本のなかに、この輪中という言葉がでてきていました。『地形と日本人』(金田章裕著)P.94,95
河川の氾濫をふせぐために、川に沿ってずっと続けて築かれた堤防のことを「連続堤(れんぞくてい)」と呼ぶそうで、輪中は連続堤が輪のかたちで集落をとりかこんでいる形態をとっています。
書籍のなかでは、木曽川、長良川、揖斐川(いびがわ)が合流する地域…三重県・愛知県との境目あたり…の例があげられています。
このような輪中が九州にも残っていないか調べてみると、なんと筑後川流域にあることがわかりました。
輪中堤(わじゅうてい)
洪水から集落を守るために、輪のように堤防をめぐらせたもので、筑後川では久留米市周辺をはじめ洪水常襲地帯の中流域にいくつかの輪中堤がみられた。輪中の建設は鎌倉時代から進められたといわれるが、現存するものは少ない。
このサイトには、それがある場所を地図上に示してくれているので、その情報をもとに現地を訪れてみました。
下の地形図が輪中堤の残っている床島です。集落のまわりがムカデの足のような記号でとり囲われています。集落周囲が堤防で囲われていることがわかります。
場所:福岡県三井郡大刀洗町大字三川
座標値:33.365778,130.649461
床島のある地区は、北から流れてくる佐田川と、東から流れてくる筑後川とが合流する場所です。おそらく昔から水害が多発していた場所なのだということが想像されます。
地形図に「地形分類」図をかぶせてみます↓ 床島集落のすぐ西側に旧河道がながれており、昔、集落のすぐとなりに川がながれていたことがわかります。また集落自体が自然堤防(黄色)の上につくられています。自然堤防は河川が氾濫した際、土砂が溜まった場所のことです。集落のある場所自体が氾濫被害にあいやすい場所だということが想像されます。
このような、自然条件の不利な場所に集落をつくるには、佐田川からの水流をふせぐ堤防、筑後川からの水流をふせぐ堤防を作る必要があったのだと考えられます。このような理由で、要塞のように周囲をぐるりと取り囲む堤防…つまり輪中堤がつくられたのだと考えられます。
輪中の集落は実際、どのようになっているのでしょう? 以下、写真の下に、どこからどの方向を向いて写真を撮ったのかをカメラマークと赤矢印でしめしています。
筑後川のすぐ隣には床島用水路が流れています。床島用水路横の堤防の上から集落全体をみています↑ 堤防に囲われ、くぼんだ土地に集落がかたまっています。写真の手前には畑がひろがっています。
下の写真は床島の西端の堤防の上から撮っています。輪中堤のかたちがわかるように撮りました。カーブを描きながら、集落を囲っているのがわかります。堤防の高さは約3mほどです。堤防の上(標高18.2m)に舗装道がはしっています。堤防の内側(標高15.1m)には畑がひろがっていました。
↓輪中堤の西端から集落を眺めた写真です。写真の手前には畑がひろがり、写真の中央部には床島八幡宮が鎮座しています。堤防の上からだと、やや見下ろすかたちになります。
↓輪中堤西端の上から、輪中外側部分を撮った写真です。草の生い茂る荒地となっています。やはりこの荒地も堤防の上からやや見下ろすかたちとなっています。荒地の向こう側で佐田川と床島用水路が合流しているはずです。万が一、佐田川が氾濫した場合でも、この荒地までで水流がくいとめられると予想されます。
↓床島用水路を、上流側(東側)にむかって撮ったものです。右側に筑後川、左側に床島があります。
床島の入口である橋の上から、佐田川下流方向(西側)をむいて撮ったものです。写真左側に輪中堤があります。川底と堤防の高さは約6mもあります。
はじめて輪中と呼ばれる地形をみることができました。「床島」の「床」という字は、”他の面よりも一段高くした台”という意味があります。床島の集落は周囲の川底と比較して約4mほど高い場所にあり、その周囲をさらに3m高い堤防で囲っています。このような形から「床島」という名がついたのかもしれません。