福岡県築上郡に、標高約180m地点につくられたトンネルがあります。このトンネルは傾城隧道(けいせいずいどう)と呼ばれ、『新京築風土記(山内公二著)』P.350に紹介されていたので、足をはこんでみました。
場所:福岡県築上郡上毛町大字東上
座標値:33.528052,131.159753
傾城隧道は、福岡県と大分県の県境にちかく、隧道の東側約600mのところには県を分ける山国川がながれています。
どうしてこの隧道が書籍に紹介されているのかというと、おそらく2つの理由があるためと考えられます。
ひとつめの理由が、「隧道ができる前は峠として難所であった」ということです。峠の名前は「傾城越(けいせいこえ)」、標高は190mあります。
地形図をみてみると、築上郡のあたりは南側から北側にむかって川が並列にながれており、その川でできた谷がこれまた南北方向へとのびています。傾城越は、このいくすじにもならぶ谷と谷とをむすぶ道のひとつということがわかります。
そのため山をはさんだ向こうがわの村へいくためには、峠をこす必要がありました。そうしなければ何㎞も遠回りをしなければならなかったのでしょう。
むかし、京都(みやこ)の遊女が情夫をおって旅をする途中、「傾城越」をこえきらずに亡くなり石になったという話がのこっています(参照:『新京築風土記(山内公二著)』P.350)。
もうひとつの理由が、「隧道の工事が難行したから」というものです。隧道をはじめに建設しようとしたのが友枝村にすんでいた大森武雄氏です。友枝村の友枝という地名は、傾城隧道の東側約1.2㎞のところをながれる「東友枝川」という川にのこっています。おそらく、友枝村は傾城越の東側地域に存在していたと考えられます。
その友枝村にすんでいた大森氏が、「隧道を建設しましょう」と声をあげ、実地測量がおこなわれたのが1886年(明治19年)。しかし費用が莫大なものになることが予想されたため、中止されました。
その26年後の1912年(明治45年)、県議会議員となった大森氏は、ふたたび隧道を建設することを提唱しました。しかし、岩盤がかたく工事が困難でトンネルは貫通されずじまいとなりました。
さらに11年後の1923年(大正12年)、小倉陸軍の工兵隊に訓練の名目で工事を依頼し1924年11月にやっと隧道が開通しました。
大森氏が工事開始の声をあげてから数えると38年もの年月が経過したことになります。
上の写真は傾城隧道の東側入口です。いっぽう、1枚目にご紹介した写真は西側入口の写真です。隧道をそとからみると切り立った崖に穴をあけている様子がよくわかります。
じっくりと調べていないので憶測ですが、大分県の耶馬渓とおなじように、このあたりの岩盤も溶岩によってつくられているのではないでしょうか。そのために固い岩盤に工事が阻害されたと考えられます。
1924年に開通し、1976年(昭和51年)に一度改修工事がされています参照 参照。
そして2017年(平成29年)に、隧道内のライトがLEDにとりかえられ、落書き防止用の壁塗料が塗られました。壁をよくみてみると、塗料が塗られた壁の色がちがっているのがわかります。
LEDでてらされた隧道内はとても明るいです。田んぼや山々に囲まれた田舎の道なのですが、車通りは比較的多くて、わたしがトンネルを撮影しているときにも5~6台の車がとおりすぎました。