大分県 国東半島の国見町に鬼籠(きこ)という地区があります。鬼籠に庚申塔をさがしにいき、今回も鬼籠の庚申塔をご紹介します。今回の投稿の庚申塔は「鍛名命社(かなみこしゃ)」という小さな社の境内にまつられていました。
場所:大分県国東市国見町鬼籠
座標値:33.664339,131.566111
上の衛星写真でみると、鍛名命社の東側に路地が逆コの字型にはしっています。この路地から鍛名命社へははいってゆきます。↓下の写真が、路地から鍛名命社方面をながめたものです。民家の間にさらに小さな路地があり、この路地が鍛名命社へとつづいています。写真では路地の奥のほうの高くなった場所に庚申塔がみえています。
石垣で組まれた台地の上に鍛名命社の小さな鳥居と、小さな拝殿があります。鳥居の左側に、笠つきの立派な庚申塔がまつられています。
庚申塔の像容は風化がすすみかなり見にくくなっています。青面金剛の表情は確認することができません。しかし写真を拡大して、細かく像容をみていくと、青面金剛には火焔光背(かえんこうはい)のようなものがあることがわかります。
また青面金剛の腕は6本あり、両脇には二童子が確認できます。
さらに青面金剛は邪鬼をふみつけ、そのさらに下側には三猿二鶏、四夜叉が確認できます。それぞれの像の配置がわかりやすいように、なにも文字をいれていない写真と、説明のための文字を入れた写真を上下にならべています↓
青面金剛像は指一本一本まで表現されています。三猿は、真ん中の猿を両側の猿を抱くようにしているようです。邪鬼の下にしかれている台のようなものには四角や横棒のような模様が刻まれています。
こうしてみると、とても細かい部分まで刻まれている庚申塔であることがわかります。完成した当時はその細かさで見る人たちを圧倒したのではないかと想像します。
↓庚申塔にむかって右側面には「甫月放画」「弘化二乙巳星」と刻まれています。弘化二年は西暦1845年で、干支は乙巳(きのとみ)です参照。「星」というのは「年」と同義なのでしょうか。
甫月(ほげつ・ほづき)とはどういう意味なのでしょう。みんなの知識ちょっと便利帳では睦月(むつき)の別名で1月の意味とあります。
甫月とはどういう意味なのでしょう。「放画」という文字自体がしらべてみてもネット上ではみられません。造語なのかもれません。「放」という文字は「自由にする、はなつ」「ならう、まねする」という意味をもちます参照。
庚申塔の左側面をみてみます。こちらには「正月初七日」とあります。刻まれている文字をすべて考えあわせると1845年1月7日ごろに、この庚申塔は建立されたということがわかります。
この庚申塔がまつらている社には小さな鳥居が設置されています。その鳥居の額面をみてみます↓ 額面のはじめの文字がみえにくくなっています。しらべてみても「鈒名命?」とか、「鈬名命?」とか…なかなか神様のなまえと合致する文字がみつけられませんでした。
『国東半島の庚申塔-25037-(小林幸弘氏運営ホームページ)』において「鍛命」という文字が紹介されていました。また、『じなしの山歩記と国東半島ミュージアム-紀新太夫行平と鍛名命社の祭祀 2010.7.26-』でも「鍛名命社(かなみこしゃ)」という文字が紹介されていました。
ブログ「じなしの山歩記と国東半島ミュージアム」を参照させていただくと、この神社がある場所では、むかし有名な刀鍛冶がつかっていた鍛冶場があったということです。
その刀鍛冶は紀新太夫行平(きしんだゆうゆきひら)といい、紀新太夫の子孫が現在でも7月下旬と12月初旬に例祭をおこなっているそうです。
同ブログには、鬼籠(きこ)という、この地名の由来まで紹介されていました。
鬼籠(きこ)という地名については昔から伝わる民話がある。
・・・とてつもなく恐ろしい赤鬼が、耳まで裂けた大きな口を開け、牙と牙の間から真っ赤な火炎を吐きながら、鉄の塊を熔かし、その焼けた鉄を手でつかみながら、叩いて刀を鍛えている・・・
鬼籠は、ずっと気になる地名であったため、その由来を知りたいと思っていました。赤鬼が刀鍛冶をおこなっていたという云われから鬼籠という名がついたのですね。とてもありがたい情報です。