場所:大分県豊後高田市大岩屋
座標値:33.594593,131.5234833
応暦寺本堂の裏側に、奥の院へとつづく山道がつづきます。その参道の途中…右側の岩壁に「堂の迫磨崖仏」が彫られています。本堂から宮の迫磨崖仏までの距離は、直線で約210mです。
途中に六所大権現の社があり、その社の左側から険しい石段をのぼっていきます。
↑上の写真の右側にうつっているのが、六所大権現の社です。そのすぐ横から応暦寺奥の院へとつづく石段がのびています。
この石段の途中に、堂の迫磨崖仏があります。案内板によると、石仏の配置は、おおよそ以下のようになります。
磨崖仏があまりにも高い場所にあったことと、だいぶ山道が荒れていたこと、子どももつれていたこともあり、磨崖仏のある場所まではあがっていくことはむずかしかったです。そのため遠くからの写真のみとなります。
この磨崖仏については、『国東半島の石造美術 (酒井冨蔵著)』P.208に詳細な解説が紹介されています。すこしながいですが、その箇所を抜粋します。
岩壁を高さ八〇糎(センチメートル)、巾(はば)五、〇米(メートル)にわたり深さ二〇糎に切り込んだ枠内を三つに区切り、左側より六観音、六地蔵、発願夫婦像、俱生仏(ぐしょうぶつ)とあらわしてある。
六観音像は像高平均四〇糎で六像で宝冠を頂き、蓮華をもつもの、合掌せるもの、印を結べるものなどの姿態はうかがえるが、どれが六観音のどのお姿かは、ちょっと拝観しただけでは区別しがたい。
十王像が六観音、六地蔵尊像の間に造顕されている、法服、法冠、両手を臍前に重ねている、坐像ではなく立像のようである。
六地蔵尊像は立像で、円光背を負い、錫杖、宝珠、合掌、印を結べるお姿がわかる。十王経所説による六地蔵のようである。六道救済を表現したものであろう。
つぎの夫婦像と俱生神はよくわかる。
観音さんは現世の救世者、それに十王(閻魔大王のように見える)それに俱生神、われわれ庶民の救済の姿であろう。
製作年代は鎌倉末~室町期のものと推定されている。
右側にある比丘尼・比丘坐像が、これらの磨崖仏をつくろうと発願した夫婦をあらわしたもので、その夫婦が、死後の極楽往生を祈願した思いが、このような磨崖仏として表現されたと考えられています(参照:案内板)。
堂の迫磨崖仏の、さらに先には応暦寺奥の院へとつづく石段が、まだまだつづいていました。ここを訪れたのは、2020年9月26日。残暑きびしく、参道は荒れており、さらに周辺からはスズメバチの低音の羽音がきこえ、冷や冷やしながらのぼっていったことを思い出します。
奥の院のご紹介は、また別の機会にしたいと思います。