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福岡県在住。各地の史跡巡りが好きで、九州北部を中心にNikon D750をメイン機として史跡を撮っています。詳しい撮影場所は各記事に座標値として載せていますので、座標値をGoogle MapやWEB版地理院地図の検索窓にコピペして検索すると、ピンポイントで撮影場所が表示されます。参考にされてください。

もともと小倉北区にあった大正寺の六地蔵 福岡県北九州市八幡東区帆柱

『北九州市史(民俗)』P.579に”大正寺の六地蔵”という項があります。これによると、八幡東区の東台良(ひがしだいら)という地区に大正寺があり、ここに現在5基残存している”六地蔵”がまつられているといいます。

 

もともと小倉藩主である小笠原忠真(ただざね)が、小倉北区の馬借町に六地蔵をまつったことにはじまるそうです。小倉北区にあった六地蔵が、どうして現在は八幡東区にあるのでしょうか?その経緯は以下のようになります。

 

・小倉北区で、忠真氏が六地蔵をまつって地蔵軒をつくった

・その地蔵軒が、のちに円照院と名前をかえた

・明治維新のあと、円照院は小倉北区古船場町にあった大隆寺と合併した

・円照院と合併した大隆寺は、大正5年(1916年)に現在の地に移転された

 

その忠真氏がまつったといわれる六地蔵を、大正寺にたずねてみました。結論からいうと、境内の墓地近辺に石仏がたくさんあり、どの石仏が忠真氏がまつったという六地蔵であるのかがわかりませんでした。

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上の写真のような石仏がまつられている場所は以下の地点です。

 

場所:福岡県北九州市八幡東区帆柱

座標値:33.858556,130.794639

 

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これら石仏のなかにはとても古い印象のものがあります。それら石仏の銘をみてみると、宝暦七年(1757年)とか、明和八年(1771年)などが確認できます。古そうな石仏でも1700年代につくられたものです。

 

小笠原忠真氏が生きた期間は1596年~1667年です参照。忠真氏が生きている期間に六地蔵はつくられたわけなので、1700年代につくられた比較的あたらしい石仏は、忠真氏がまつったものではないことがわかります。

 

けっきょく、どこに六地蔵(現在は五地蔵)がどこにあるのかは不明でした。

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大正寺の山門

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大正寺境内

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墓地へつづく参道

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大正寺から臨む北九州市街と石峰山

大正寺境内には車が10台ほどとめられる駐車場がありました。しかし私たち家族はそのことを知らなかったため、付近のパーキングに車を停め、歩いて大正寺までむかうこととなりました。

 

パーキングから大正寺までは、急な坂道と階段をのぼっていきました。大正寺自体が皿倉山のふもとに位置しており標高が102mの場所にあります。

 

北九州市は洞海湾のすぐそばまで、石峰山や皿倉山がせまっており、その狭い土地のなかにおおくの人がすんでいるので、坂にたくさんの住居をたてる必要がありました。

 

大正寺周辺の住宅街も、急な斜面に住居をかまえている場所が多くみられました。その風景は、広島県の尾道市の風景ににています。

 

別の機会に、大正寺に行くまでにであった北九州市の坂がある風景をご紹介したいとおもいます。

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大正寺山門ふきんの景色