福岡県田川郡の香春(かわら)町に、宇佐神宮とゆかりのある史跡があることを知り、行ってみることにしました。清祀殿(せいしでん)という史跡です。以前からその存在をしっていたのですが、小さな集落にある史跡なので、車ではいっていく勇気がなかなかでなかったのです。
大分県宇佐市にある宇佐神宮では毎年10月に、放生会(ほうじょうえ)とよばれる行事がおこなわれます参照。この放生会で奉納するための鏡をつくっていたのが、ここ清祀殿(せいしでん)という建物だったようです。といっても清祀殿がのこっているわけではなく、この写真の社殿は、どうもその跡につくられた建物のようです。拝殿と祠がたてられ神社となっています。
場所:福岡県田川郡香春町大字採銅所
座標値:33.699044,130.852412
ここ清祀殿でつくられる鏡は銅でつくられていました。その銅は、すぐ近くにある香春岳(三ノ岳)で採掘され、ここまではこばれました。採掘跡は、清祀殿から約200m南へ移動した地点にあります。採掘跡は「神間歩(かみまぶ)」と呼ばれ、出入口には柵がもうけられて保管されています↓
場所:福岡県田川郡香春町大字採銅所
座標値:33.697313,130.851773
神間歩でほられた銅は、清祀殿は鋳造され「御神鏡」とよばれる鏡となりました。その鏡は、つくられて宇佐神宮へ運ばれるまで御床石という石の上で安置されていたようです。
つくられた鏡を安置するのにつかわれていた御床石は、どういう読み方で、どういう意味があるのでしょう。御床石は「みとこいし」参照あるいは「ぎょしょういし」参照と呼び、「御床」は帝王や天皇がすわる玉座ということです。
案内板の説明によると、その御床石は清祀殿跡につくられた神社にまつられているそうです。
現在、清祀殿背後上段左手に花崗岩の自然石が三基立っているが、これが鋳造が無事終わった鏡を神宿殿で安置するのに使用した「御床石」
撮った写真をあとでよく確認してみると、たしかに三つの自然石が祠にむかって左側にまつられていました。
この御床石をどのようにして使って鏡を安置していたのかは詳しくはわかりませんが、石の上になにか敷物をしき、鏡をその上に祀り、地面よりも一段高い場所に安置する目的で使用されていたのだと想像します。
最後に清祀殿の敷地内にたてられている案内板をそのまま書き出してみます↓
県指定 文化財
(指定番号史第十三号)
清祀(せいし)殿
清祀とは中国語で「清いまつりごとをする壮厳な家屋」という意味があり、この地こそ宇佐神宮に奉納した御神鏡鋳造の場所である。
古来より御神鏡鋳造の任にあった長光家の古文書によると
一、天照大神社一宇
一、清祀殿一宇
一、神宿殿一宇
一、勅使殿一宇
一、在庁官人小屋一宇
とあり、御神鏡鋳造当時の清祀殿について現在的に解釈すると、「清祀殿一棟、屋根は板ぶきで、九尺間を一間とする三間四方の広さで、柱を総数十二本、高さ二十二尺、中はすべて土間になっており、中央には鍛冶床が設けられていた」と注釈が記されている。
清祀殿裏手、三の岳の間歩(銅鉱石を掘り出した坑道跡)より運ばれた銅の鉱石はここで精錬され、御神鏡としてこの建物の中で鋳造されたと推察される。
なお、御神鏡鋳造の始期であるが諸説あるものの、宇佐神宮の放生会に奉納する御神鏡を初めて鋳造したのは養老四年(710年)であろうといわれている。
また、古宮八幡神官林家に伝わる「宇佐宮造営日記」等の古文書によると、奉納行事は四年から六年毎など変わっており、歴史の興亡や数々の変遷を経て八十余度行われてきたようであるが、中御門天皇享保八年(1723年)に実行した記録があり、おそらくこの行幸会を最後として放生会も含めて長光地区における御神鏡鋳造は廃絶したものと推察されている。
現在、清祀殿背後上段左手に花崗岩の自然石が三基立っているが、これが鋳造が無事終わった鏡を神宿殿で安置するのに使用した「御床石」で、鋳造遺跡を今に伝える唯一の文化遺産である。
昭和五十二年十月、約二百五十年ぶりに(四百年ぶりという説もある)に御神鏡奉納行事が復活したが、諸般の事情で存続が困難となり、現在は中止されている。