令和2年2月16日、福岡県直方(のおがた)市 植木の蓮照寺で「石柱梵字曼荼羅碑(せきちゅうぼんじまんだらひ)造立950年記念講演会」が開かれました。この記事をアップする日の2週間前にひらかれた講演会です。
蓮照寺:福岡県直方市大字植木438
直方市のHPで紹介されているように、たくさんのかたが来場されていました。私がざっと見た感じでは約100人のかたでお寺の講堂がうめられていたように感じます。
参照:https://www.city.nogata.fukuoka.jp/machinowadai/_7210/_8582/_8678.html
この講演会がひらかれるのを知ったのは「くさの (id:kusanon)」様からのコメントです。くさの様ありがとうございました。
以下は講演会で、原田昭一氏が話されていたことをまとめたものになります。
石柱梵字曼荼羅碑とはなに?
植木の石柱梵字曼荼羅碑(せきちゅうぼんじまんだらひ)は、延久2年(1070年)の銘がきざまれた、造立目的がよくわかっていないとても古い石塔です。1070年は平安末期のころ。こんなに古い石塔で現存しているのは、福岡県でもとてもめずらしいため、この一基の石塔のために講演会がひらかれるまでになったようです。
祀られている場所:福岡県直方市大字植木679
はっきりとした写真は直方市のHPに掲載されています。
参照:https://www.city.nogata.fukuoka.jp/kyoikubunka/_2839/_3605/_3611.html
平安時代末期は末法思想がひろまった時代でもありました。日本では1052年を末法元年とする説が多く信じられ、末法元年から1万年はお釈迦様の教えだけが残り、悟りをひらくものがいない時代とされていました。平安末期は、富士山や開聞岳、鶴見岳など、全国でたくさんの火山活動が活発になり、これにともなう疫病や飢餓がおきている時代でもありました。
この石塔はふだんは観音堂の中にまつられ、さらに布に覆われているとのことで、私は実際に拝観したことはありません。そのためこちら↑の石柱梵字曼荼羅碑の写真も、講演会資料から引用させていただきました。
石塔には↓下の写真のような梵字が刻まれています。キリーク(阿弥陀如来)、サク(勢至観音)、サ(観音菩薩)の三尊です。
この三尊が刻まれている側とは反対の面には↓下のような模様が刻まれているといいます。石柱は観音堂の奥壁に、ほとんど隙間がないほどの場所に祀られているため、裏面を観察するのは困難であったそうです(講演会内での話)。
この模様は「胎蔵界曼荼羅」と「金剛界曼荼羅」のふたつと、その下に、「随求小呪」とよばれる26字の梵字がきざまれています。
「随求小呪」というのは、大随求菩薩(だいずいぐぼさつ)の三昧(ざんまい)をあらわしたもの。かんたんに言えば、菩薩が瞑想にふけった状態をあらわした言葉なのだそうで、この言葉を聞けば、すべての罪や災いがなくなってしまう言葉でもあるそうです。
講演会で話されていた原田昭一氏によると石柱梵字曼荼羅には、願意(がんい)が記載されていないために、建立目的は現在も不明とのことです。しかし、平安時代末期の末法思想の広がりと、全国的な天変地異の多発という大きなイベントが同時におきたことから、救済をもとめて建てられたものと考えられます。
石柱梵字曼荼羅碑の形態から読み取れること
石柱梵字曼荼羅碑はいびつな6角形をしており、材質は玄武岩です。玄武岩は溶岩が高温でかたまったときにできる固い岩で、曼荼羅碑の場合、石塔の頭側をたたいてならしたような跡が残っているそうです↓
「玄武岩」そして「6角形」ということから、柱状節理によりできた岩の柱を、そのまま持ってきて、これを加工したものが石柱梵字曼荼羅碑ではないかと原田氏は推測されていました。石柱梵字曼荼羅碑の頭側が平らになっていることから、むかしは笠がのっていたのではないかという推察もありました。
さらに他地域での、同様の柱状節理でできた岩の柱をもちいた石塔の例をみてみると、経塚にたてられる石塔や石幢(せきどう)で使われていることが確認できるそうです。
他の柱状節理でできた岩の柱をもちいた経塚石塔の例
・玉虫の如法経碑(熊本県御船町)
・角柱塔婆(大分県宇佐市稲積山)
経塚ではないが柱状節理でできた岩の柱を用いた石塔の例
・比叡山 良源 墓塔
・比叡山 慈忍 墓塔
・比叡山 源信 墓塔
・比叡山 覚超 墓塔
そして原田氏は以下のように結論づけています。
植木観音堂曼荼羅石塔婆と玉虫如法経塔は類似する石塔であり、これらは石幢および、その部材である可能性が高い。
植木観音堂曼荼羅石塔婆は両界曼荼羅の下に随求小呪の梵字種子がみられるため、経幢と位置付けられよう。
経幢は胴身の部分に経文や陀羅尼(だらに)と呼ばれる呪文を刻んだものです。経幢はインドから中国を経て日本に伝わったそうですが、中国の経幢には、頭の部分に宝蓋とよばれる笠がのせられています参照。
まとめ
植木の石柱梵字曼荼羅碑は、もともと経幢だったのではないか。そして中国の経幢と同様に、胴身の上に笠がのせられていたけど、いつの時代にか外れてしまって、さらに基礎となる部分もなくなり、胴身の部分だけが残り、今のような形になったのではないか…ということがわかってきました。
私は、このような史跡に関する講演会に参加するのははじめてでした。どれくらいの人が参加するのだろうと、あれこれ想像していましたが、考えていた以上のたくさんの人が参加されていて驚きました。どうも直方市植木に住んでいる方々が主に参加されているようでした。
やはりプロのかたに史跡に関するレクチャーをしていただくと、「こういう方法で史料をしらべていくのか」とか「こうやって全国の類似の史跡をしらべて、対象の史跡について仮説をたてていくのか」とか、知見がひろがる感じがします。参加してとてもよかったです。