『岡垣町史』P948-949に「岡垣の庚申塔」一覧が紹介されていました。これをもとに、福岡県遠賀郡岡垣町の手野という地区に、庚申塔を探しにいってみました。
手野という地区は、岡垣町のなかでも、やや北側に寄った場所に位置しており、手野の集落から約1㎞北上すれば海(響灘;ひびきなだ)がひろがります。手野の集落を、ぐるっと1周まわってみても約2㎞と、小さな集落であることがわかります。
『岡垣町史』P949には、手野集落にある毘沙門天境内に、二基の庚申塔があることが示されています。しかし、”毘沙門天境内”とはどこなのか?Google mapや国土地理院地図では、それらしい神社はみつけられませんでした。
Google map上では手野集落のいちばん奥まった場所に「大国主神社」という社がひとつだけ示されています。しかし、毘沙門天はこの社ではなさそうです。ということは実際に行って見つけるしかありません。
手野集落内を、はじめはザッと車で周り、それでも見つけられない場合は徒歩で小さな路地を歩いてまわろうと考えていました。しかし幸運にも毘沙門天が祀られる社は車で周っているときに、すぐにみつかりました。
毘沙門天境内の座標値:33.868447,130.582831
手野集落のほぼ中心部に、毘沙門天が祀られた小さな社がありました↓
鳥居の額束にも「毘沙門天」の文字がかすかに確認でき、まちがいはなさそうです。
鳥居をくぐって正面に毘沙門天が祀られるお堂がありました。
「川西四国霊場 奥ノ院」「本尊 毘沙門天」の看板が、お堂にかかげられていました↓
このお堂を正面にすると、左手側に石仏とともに、二基の庚申塔が祀られていました。
場所:福岡県遠賀郡岡垣町 大字手野
座標値:33.868462,130.582761
二基の庚申塔に向かって、右側からご紹介します↓ 「奉拝 庚申塔」と正面に刻まれた文字の右側に「宝永三歳」の文字、そして左側に「正月廿八日」の文字が刻まれます。宝永三年は1706年、正月廿(にじゅう)八日は1月28日のことです。まとめると、この庚申塔は、1706年1月28日の建立です。
「庚申塔」の文字の下には庚申講メンバーの名前が、おそらく、7名刻まれています。メンバーの名前ははげしく風化しており、文字が刻まれているのか、石の凸凹であるのか判別の難しい箇所もあります。
左側に祀られる庚申塔へ目をうつします↓ 「庚申塔」という文字が正面に刻まれます。
庚申塔に向かって、塔の右側面に「享保十一年」、左側面に「三月吉日」と刻まれます。享保十一年は1726年です。
こちらの庚申塔は土台部分の石に、庚申講メンバーの名前が、おそらく8名、刻まれています↓