日々の”楽しい”をみつけるブログ

福岡県在住。九州北部を中心に史跡を巡っています。巡った場所は、各記事に座標値として載せています。座標値をGoogle MapやWEB版地理院地図の検索窓にコピペして検索すると、ピンポイントで場所が表示されます。参考にされてください。

劫火のなかで手を取りあう母子像 北九州市小倉北区城内

昭和20年(1945年)8月9日に長崎に原子爆弾が投下されました。当初この原爆は、北九州市の小倉に投下される予定でした。しかし当日の小倉の空はあつい雲に覆われ、視界が不良であったため、第二目標の長崎市に投下されたそうです。

 

わたしが小学生のときに学校の授業で以上のように習いました。では小倉のどこが投下の目標とされていたのか?その目標となる地が、この「小倉平和祈念碑」が立つ場所です。1945年当時、この場所には小倉陸軍造兵廠(こくらりくぐんぞうへいしょう)があったそうです。

場所:福岡県北九州市小倉北区城内 勝山公園

座標値:33.881447,130.872604

 

小倉陸軍造兵廠とはどんな建物だったのでしょう?『九州の戦争遺跡』(江浜明徳著)【Kindleロケーション739/2997】に説明が記されています。

 

”「北九州平和資料館をつくる会」の方の話によると、この小倉陸軍造兵廠ではアメリカ本土まで飛来して被害を与えた「風船爆弾」の材料を作っており、これに毒ガスや細菌兵器をとりつけて攻撃されることを恐れたアメリカが先制攻撃を敢行したためだということであった”

 

つまり造兵廠とは兵器を作るための兵器工場だったようです。小倉陸軍造兵廠は、史料によって旧小倉陸軍造兵廠とも紹介されているのですが、同じ建物を指します。その広さはとても大きく、面積が約58万3千平方メートル。 

 

北九州市役所のあたりから、紫川に沿って、大手町病院ふきんまで工場の敷地が広がっていたとのことです。その広さのイメージがつかみにくいと思います。実際に市役所から大手町病院まで歩いてみると、約20分かかりました。同敷地内を端から端まで歩いて20分かかるという施設は、なかなか無いと思います。それほど広い施設だったのですね。

 

大手町病院のすぐ裏側にも、小倉造兵廠跡を示す建造物が残されていました。これは防空監視硝(ぼうくうかんししょう)といって、空襲に備える建物とのこと。33㎝の厚さのコンクリート壁のなかには機関砲を備えていました。これが造兵廠の各所にあり、この写真の監視硝は工場の屋上にあったものなのだそうです。

場所:福岡県北九州市小倉北区大手町

座標値:33.875141,130.871309

 

旧小倉陸軍造兵廠「防空監視哨」


この監視哨は、戦時中、空襲に備えるために、旧小倉陸軍造兵廠内の各所に設置されていたものの一つで、第一施工場の屋上にあったものです。(この場所から北側約 400mの北九州市消防局庁舎附近) 高さ約 2.3、直径約2.4ん、コンクリート製の壁 の厚さは、33撃の六角形の塔で、側面には、 監視用の小窓が5ヶ所あり、機関砲を備えていました。


民間の倉庫として使われていた旧第一施 工場が、平成8年(1996年)2月に解体される際、当時を物語る施設の一部として残されたものです。


北九州市

 

このような厳重な防空施設を備えた造兵廠以外にも、小倉には戦争遺跡が多く残されています。小倉南区下吉田には、広島県大久野島で作られた毒ガスを詰める工場があったなど…。

 

小倉平和祈念碑(正式には『原爆犠牲者慰霊平和祈念碑』)は、長崎での犠牲者を追悼して建てられたものでした。

 

”碑は、劫火の中で手を取り合う母子像を形どったものです。またこの碑と並んで長崎の鐘(ANGELUS)がありますが、これは長崎市から贈られたものの複製です(実物は市庁舎一階ホールに展示)。毎年八月九日の長崎原爆の日には、市庁舎にある実物の鐘に取り替えられ、北九州市民による慰霊祭が行われます”『九州の戦争遺跡』(江浜明徳著)【Kindle ロケーション729/2997】

 

『九州の戦争遺跡』(江浜明徳著)を読んで実際にその地へ足を運んでみると、わたしが知らなかった北九州市の戦争に関する事実が、まだまだ出てきそうです。