猿田彦大神は道しるべの神様として認識していますが、猿田彦大神が刻まれる石塔は道祖神としての役割を担っているのでは?という疑問が以前からあります。猿田彦大神とのみ刻まれた石塔は、庚申塔と呼べるのか?ここのところをはっきりさせておきたいので調べてみました。
そもそも猿田彦大神とは?
ウィキペディアでは”天孫降臨の際に、天照大神に遣わされた瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)を道案内した国津神”とあります。さらに…
天孫降臨の際に道案内をしたということから、道の神、旅人の神とされるようになり、道祖神と同一視された。そのため全国各地で塞の神・道祖神が「猿田彦神」として祀られている。
…とあります。これだけみると「猿田彦」の名前のみが刻まれた石塔は道祖神と考えてもよさそう。
いっぽうで、庚申塔の研究 (1959年)では、以下のように記されています。
[兼邦百首歌抄]には、興玉の神、早尾、げん大夫、道祖神、ちまたの神、さいの神、ふな玉、さきたま、まりの明神、手なづち、あしなづち、しらひげの明神、しゃうげの神、うが神などとされている。しかしこれだけ多くをあげていながら、庚申のことは記していない。つまり室町時代より前には猿田彦を庚申の本体とする考えはなかった。(P193)
少なくとも、室町時代以前は猿田彦大神は庚申塔の主尊としては認識されていなかったようです。室町時代以降では江戸時代から、石塔に猿田彦大神がでてくるようになったそうです。
猿田彦がでてくる寛政9年 その時代はどんな時代?
猿田彦が石塔にでてくるようなったのが寛政9年…つまり西暦1669年と著者である清水長輝氏はいわれています。その時代は山崎 闇斎(やまざき あんさい)がいた時代です。闇斎は江戸時代の学者・朱子学者・神道家・思想家だそうで、垂加神道(すいかしんとう)という神道説を提唱した時代でもあります。
では天照大神(あまてらすおおみかみ)と猿田彦を最も崇拝するそうで、この時代から石塔に猿田彦が刻まれるようになったようです。猿田彦の「猿」と庚申塔の「サル」が後にむすびつき、庚申塔に猿田彦が刻まれるようになりました。これは一つの説。
この説に従うなら、江戸時代以降に庚申塔に猿田彦神が登場するようになったんですね。
猿田彦が刻まれた石塔はいつごろが多い?
寛文から大正まで、なかでも幕末に多いそう。文字塔が主で神像をきざむものはまれなんだそう。だから宇佐神宮付近に祀られるこの塔は珍しいんですね。
猿田彦と庚申塔の特徴が結びついた石塔
庚申塔と猿田彦がむすびついている例はあるんでしょうか?どうもあるみたいですね。庚申塔の研究 (1959年)の図録に掲載されていました。
こういった石塔は庚申塔と呼べるんでしょう。ちなみに宇佐神宮近くに祀られていると紹介した前の写真の塔にも、猿田彦の頭側に二鶏が刻まれているので庚申塔とよべそうです。
まとめ 猿田彦だけが刻まれる石塔は道祖神としての役割
だから猿田彦の銘のみきざまれた石塔は庚申塔とはちょっと違うのかもしれません。例えばこのような石塔↓
いっぽうで「猿田彦」という文字と一緒に、「講中」とかの庚申講を予感させる文字が刻まれていたり、月日や三猿などの像が刻まれている石塔ならば庚申塔といえるのでしょう。
追って、猿田彦大神と庚申塔との関係について、調べてゆきたいと思います。