富貴寺(ふきじ)から県道655号線を北東へ、1.5㎞ほど進むと左手に山神社への参道が見えてきます。この参道脇に、今回の庚申塔は祀られていました。google mapでは、山神社がひっかからなかったので、地形図をもとに神社を探してました。小さな神社でも、地形図ではしっかり記載してくれているのでありがたいです。
場所:大分県豊後高田市 田染(たしぶ)蕗(ふき) 陽平(ひなたびら)
地図:Google マップ
国東半島で、文字塔の庚申塔を見ることは珍しいです。「国東半島の庚申塔」小林幸弘著(大分合同エディカル)を拝読していると、青面金剛の像が刻まれる多くの庚申塔のなかに、この蕗にある文字塔が紹介されていました。まだ訪れたことのないコウシンさまでもあったので、行ってみることにしました。
塔は自然石。「青面金剛尊塔」の文字の上に、梵字が刻まれていました。胎蔵界 大日如来を示す梵字です。
さらに、塔の下部にはなにかたくさん文字が刻まれています。ここで「国東半島の庚申塔」小林幸弘著(大分合同エディカル)を引用させていただきます。
正面下部には施主または願主と思われる「柏木文次良、永松平蔵」のふたりの氏名が読みとれる。
また「青面金剛尊塔」の両側にも造られた年と月日が表されています。1775年に造られたようです。以前、庚申塔の形態がどんなふうに変わってきたのか、全体を把握するために作った表と照らし合わせてみました。
1775年というと、青面金剛の像を主尊として刻む「青面金剛時代」は終わりつつあり、簡略化された文字塔へと推移している時期のようです。
また、各時代に庚申塔がどのくらいの割合で造られたかを示す「国東半島の庚申塔」の「国東半島庚申塔造立年表」を見てみました↓
たくさんの庚申塔が立て続けに造られた1600年代末から1700代前半をピークに、徐々に庚申塔の造立は少なくなってきています。ピーク時は1年に5~6個の庚申塔が造られたそうですが、1775年では、1年にだいたい2個の割合です。