・どの時代のもので
・全体の形態のなかで、どの形態のものか
この二点を頭において分類してみると、「庚申塔の位置」がおおざっぱに把握できるかな…と思い、時間軸と形態で庚申塔を自分なりに整理してみることにしました。参考にした書籍が、庚申塔の研究 (1959年)です。
庚申塔の外観は大きく分けると、以下のような4つにわけることができるようです。書籍のなかでは、さらに詳しく分けられていましたが、ぼくは研究者ではないのでざっくりと、自分なりにわかりやすく分けてみました。
①笠つきのもの
②板状のもの
③柱状のもの
④自然石のもの
なかでも②板状のものはバリエーションが多いようですね。板状のもののなかで、庚申塔の初期からつくられはじめたのが「板碑型(いたひがた)」。
年表を見てみると、室町時代の庚申塔は、だいたいこの板碑型のものが主流だったようです。はじめは板碑に文字のみが刻まれる形態だったんですね。
それが江戸時代の寛文(かんぶん)という時代から、三猿とか青面金剛が刻まれるようになってきたそうです。板碑型の次に現れはじめたのが、光背型というもの。これは如来像の背中側にある「光背」をかたどったもの。裏っかわは荒削りのまま、下部は蓮座となっているそうです。
江戸期の承応(じょうおう)という時代に、地蔵が主尊として刻まれたものが出はじめ、元禄(げんろく)あたりまで多く建立されました。といっても、末期まで細々と建立は続いていたそうです。
次に出始めたのが、板付きのもののなかの板状駒型と、笠つきものなんだそうです。
これらは元禄(げんろく)あたりが最盛期で、特に板状駒型のものは青面金剛像のための形なんだそうです。
庚申塔時代の末期になると、柱状のものや、自然石のものと簡素な造りの庚申塔が多くなってくるようです。
明治時代の廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)が始まると、庚申塔が建立されることが、ほとんどなくなってしまいました。