福岡県朝倉市で、以前、青面金剛像の彫られた庚申塔を探しに行きました。福岡県の庚申塔のなかでは、これがはじめて青面金剛像が彫られているものとの出会いでした。
今回は、「遠賀郡岡垣町の広報(No.228)」(←PDFファイル)に掲載されていた情報をもとに、岡垣町にあるという庚申塔を探しにいきました。広報のなかには、「庚申」の文字のみが刻まれる文字塔とともに、青面金剛像が刻まれる庚申塔も祀られているという。
青面金剛像が刻まれるとは、福岡県では、なかなか珍しい。広報では、吉木小学校の南端に、三基の庚申塔はあるという。たしかに、吉木小学校の南南西側に、その庚申塔はありました。
地図:Google マップ
ロータリーのようになっている広場の中心に、大きな樹。その樹の根元に三基の庚申塔が祀られている。
庚申塔に向かって左側から、青面金剛像の庚申塔、「庚申尊天」と刻まれた庚申塔、「猿田彦大神」と刻まれた石塔が祀られていました。「猿田彦大神」と刻まれた石塔は、庚申塔ではなく、道祖神という説もあるので、ここでは”石塔”と表現します。
↓青面金剛像は、だいぶ風化が進んでて、成立年はわからない。広報では、青面金剛像の六本の腕には、宝輪、剣、弓、矢、蛇、索をそれぞれ持っていたという。
↓真ん中にある「庚申尊天」と刻まれる庚申塔には、成立年が確認できる。寛永八年(1631年)という文字が、庚申塔に向かって右側面に刻まれる。
↑一番右端の「猿田彦大神」と刻まれる石塔には、寛政八年(1796年)の文字が、石塔に向かって右側面に確認できる。
庚申塔のそばには、庚申塔の由来と、これら三基の庚申塔についてのエピソードが書かれた看板が立っている。庚申塔の由来は、いろんな史料が残されているので、目新しいことはなかったが、三基の庚申塔についてのエピソードについては、この地区独自のものだったので、抜粋してみる。
信仰と深くかかわってきましたが 藩政時代以降、旧遠賀郡においては信仰に基づく講が存在したようですが、必ずしも信仰だけでなく、講員同市の親睦を深める場としても機能しており、庚申講もレクレーションの役割を果たしていたと言われます。
明治時代になると政府は庚申信仰を迷信とし、街道筋に置かれたものを中心に撤去を勧め、高度計座成長期には街道の拡張整備工事によってほとんどが撤去、移転され、現在残存するものは交通量の少ない街道筋に置かれていたため、破壊を免れたものがほとんどです。
現在、この土地は高倉神社の所有地で登録されており吉木区で管理しております。
遠賀町内でも31基の庚申塔があるという。 ほかにも、まだまだ僕の知らない場所に、庚申塔があるようなので、探すのが楽しみ。