これは宇佐神宮の境内に展示されている「26号蒸気機関車」…通称「クラウス号」です。この機関車は、1916年(大正5年)から1965年(昭和40年)の期間、豊後高田市から宇佐神宮までの間を結んでいた宇佐参宮線で走っていました。
↓下の地図の赤線が宇佐参宮線です。廃線になってもう50年ほど経っているので、線路の痕跡はほとんど残っていません。このほとんど残っていない痕跡を探しに行ってみました。
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↓ここは豊後高田市のバスターミナル入り口。ここに駅「豊後高田」がありました。ここを出発点とし、宇佐神宮方面へ痕跡を探します。
↓地図でいえば、このあたりです。
↓バスターミナルから、次の駅である封戸駅方面をみると、こんな直線の小道があります。もしかしたら線路跡につくられた道かもしれません。
田笛川を越えて、宇佐駅までの間は、どこを線路が走っていたのか手がかりはみつかりませんでした。しかし国道213号線発達と自家用車の普及により、宇佐参宮線が廃線となったとの記録をみると、国道213号線と並走するように線路が敷かれていたと予想できます。
おそらく↓こんな感じで、自動車道と交差しないように、ピンク色の国道213号線の東側を線路が走っていたのでは…と想像します。
そして、日豊本線と宇佐参宮線が重なるところは、↓こんな感じで立体交差していたそうです。上を走っていたのは宇佐参宮線でした。
↓これは現在の宇佐駅前に広がる空き地。ここのあたりに「宇佐」駅があったそうです。
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↓「宇佐」駅から、すぐに現れる向野川を渡るときの鉄橋跡。コンクリート基盤がこちら岸とあちら岸に残っています。
↓地図でいえば、緑色に示すような感じで線路が走っていたと考えられます。
↓向野川から神社に向かい、民家の間を縫って、今も小道が残っています。
↓さらに田んぼを斜めに進み、神社の脇を通って線路が進んでいました。
↓神社脇をながれる小川。この小川を線路が橋渡しされていました。
↓向こう岸に線路の基盤が残っています。右側の竹やぶを線路は走ってゆきます。
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↓足を踏み入れる余地もないほど竹が生い茂っていますが、線路跡がたしかに残っています。
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↓竹やぶを抜けて、宇佐神宮方向をみると、乗用車が一台通れるくらいのアスファルト道となります。
↓寄藻川にかかる鉄橋橋脚の基礎部分。川の水量が増すと水没し、見えなくなってしまいます。
↓同じく寄藻川にかかる鉄橋のコンクリート基礎。上の道路を通っていると見過ごしてしまう。
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次は橋津の町です。橋津は小高い丘となっているので、この丘を避け、回り込むように線路は走っていたようです。昔の小さな蒸気機関車だと、小高い丘でも乗り越えてゆくのは大変だったのです。
↑上地図の撮影ポイントで線路が道と交わっていました。下の写真のように踏切りがありました。
↓踏切前後の景色は以下のようになります。狭い道ながら、ちゃんと小道として線路の名残があります。
↓こちらは橋津駅の跡地。右側の1mほどの高さのブロック塀はホームだったようです。
この道を歩いてゆくと、↓ずっと宇佐神宮方面へ向け、小道(線路跡)が続いています。
↓橋津から宇佐八幡までの行程は、情報がなく名残をみつけることができず、こんな感じで走っていたのではないか…という想像で線を引いています。
↓そしてこちらが終点、「宇佐八幡」。昔の駅ホームは今では参拝者用の駐車場となっています。
↓こちらは宇佐八幡駅があった場所。
4日間かけて廃線となった宇佐参宮線の名残を探してきました。馬力のある電車用の直線線路というわけではなく、地形に左右されながら、高低差を避けて線路は右往左往していたのですね。
線路の敷かれていた場所が、今では田畑となってたり、裏路地となっていたり…でもじっくりと地形図をみるとかすかに痕跡がみつけられます。
小さい頃、化石を掘り出すのに夢中となった、あの感覚に似たワクワク感がありました。
参考にした書籍
「写真集 郷愁のローカル鉄道 宇佐参宮線」(大分合同新聞社)