日々の”楽しい”をみつけるブログ

福岡県在住。九州北部を中心に史跡を巡っています。巡った場所は、各記事に座標値として載せています。座標値をGoogle MapやWEB版地理院地図の検索窓にコピペして検索すると、ピンポイントで場所が表示されます。参考にされてください。

阿蘇神社の第三駐車場の脇にまつられる庚申塔 熊本県阿蘇市一の宮町宮地

阿蘇神社の第三駐車場の北部地点に、一基の庚申塔がまつられていました。

場所:熊本県阿蘇市一の宮町宮地

座標値:32.947570,131.117992

 

庚申塔の正面には、以下のような文字が刻まれています。猿田彦太神、文化十三年、吉 三月吉日。文化十三年の西暦は1816年、干支は丙子(ひのえね)です。

九州と関東における庚申塔の建立時期の大きな違いとして、猿田彦大神を主尊・祭神とする「神道系の庚申塔」が、関東よりも九州地方で早く建立され始めました。九州地方の庚申塔に刻まれた建立年を確認すると、1688年から1704年の「元禄年間」に神道庚申説が普及し始めたことがわかっており、実際にこの時期の筑後や肥後などでは猿田彦銘の庚申塔が作られています*1

 

一方、庚申信仰が盛んであった関東地方(および中部地方)において、猿田彦大神塔が少しずつ見られ始めるのは1751年から1764年頃(宝暦年間頃)になってからであり、広く普及していくのはさらに時代が下った江戸末期や明治に入ってからのことです。このような造立時期のズレから、関東地方と比較すると、九州地方では50年ほど早く神道の庚申塔が祀られるようになったことが分かります*2

地質図naviで確認すると、この阿蘇神社付近の地質は、「阿蘇中央火口丘群」から供給された安山岩(あんざんがん)や玄武岩(げんぶがん)の角礫を主体とする堆積物と考えられます。

 

火成岩

形成時代: 新生代 第四紀 更新世 ジェラシアン期〜完新世

岩石: 火山岩 火山麓扇状地堆積物*3

 

第四紀更新世(ジェラシアン期)から完新世という期間は、まさに阿蘇火山が巨大噴火を繰り返し、現在のカルデラや中央火口丘が形成された時期です。火山岩、特に安山岩質は花崗岩(御影石)に比べて結晶が細かく、適度な硬さと「粘り」があり、石が割れにくいという特徴があります。そのため線が刻まれやすく、はっきりとした線が表現しやすいと考えられます。その特徴が、たしかに、のこっているようにみえます。細かい文字まではっきりと残っています。

庚申塔の表面には地衣類が付着しているように見えます。安山岩などの火山岩は、マグマが冷える際にできた微細な気泡(多孔質)を多く含んでおり、この表面の凹凸が水分や養分を保持しやすいため、苔や地衣類が付きやすいと予想されます。庚申塔を構成する岩の割れ方は「不規則破断」…内部の不均質な結晶構造(斑晶と石基)によって力が不規則に伝わって割れたもの…の特徴がみられます。

この庚申塔が、この地域でとれる岩を使用してつくられたことが強く予想されます。

*1:九州における猿田彦庚申塔についてのまとめ - 日々の”楽しい”をみつけるブログ

*2:柴又帝釈天の庚申信仰~柴又型庚申塔の分布に関する一考察~,綿谷翔太

*3:地質図naviを参照

メキシコマンネングサ

ベンケイソウ科のメキシコマンネングサ(学名:Sedum mexicanum)

 

界    植物界 Plantae
門    被子植物門 Angiospermae
綱    真正双子葉類 Eudicots
目    ユキノシタ目 Saxifragales
科    ベンケイソウ科 Crassulaceae
属    マンネングサ属(セダム属) Sedum
種    メキシコマンネングサ S. mexicanum

 

島津丸山古墳のそばに自生。

 

場所:福岡県遠賀郡遠賀町島津

 

生態としては…主な生息地は本州(関東以西)、四国、九州。道端、石垣、空き地、河川の堤防など、日当たりの良い場所に自生。名前には「メキシコ」とあるが、正確な原産地は不明。日本には明治時代に鑑賞用として導入され、その後野生化した帰化植物と考えられている。

 

葉は多肉質で細長く、通常は1つの節に4〜5枚の葉が輪のようにつく「輪生」が特徴。春から初夏にかけて、茎の先端に黄色い星形の小さな花を密集して咲かせる。

 

多肉質な葉に水分を蓄えるため、乾燥に非常に強く、ちぎれた茎や葉からもかんたんに根を出して増殖する*1。土壌がほとんどないコンクリートの割れ目などでも群生できる。

 

ナズナ(薺)

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ナズナ,薺(学名: Capsella bursa-pastoris)。日本では「ペンペン草」という俗称。この名前は、三味線のバチに似た三角形(ハート型)の実を、ペンペンと鳴らして遊んだことに由来。春の七草のひとつ。

 

植物界

被子植物

真正双子葉類

バラ類

アブラナ目

アブラナ科

ナズナ属

ナズナC.

 

​属名 Capsellaは、ラテン語で「小さな箱」や「袋」を意味。​種小名 bursa-pastorisは、 「羊飼いの財布(鞄)」という意味。ヨーロッパでも、実の形が昔の羊飼いが使っていた革袋に似ていることから、英語で「Shepherd's purse(羊飼いの財布)」と呼ばれている。

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アザミの構造化

アザミ(薊)*1*2

 

界    植物界 (Plantae)
門    被子植物門 (Angiosperms)
綱    真正双子葉類 (Eudicots)
目    キク目 (Asterales)
科    キク科 (Asteraceae)
属    アザミ属 (Cirsium)

 

多くの小さな筒状の花が集まって一つの球状の花(頭花)を形成するのが特徴。

 

葉や総苞(花の付け根の部分)に鋭い棘を持ち、草食動物からの食害を防いでいる。多くの種が多年草であり、花後にはタンポポのような綿毛(冠毛)を持った種子を飛ばして分布を広げている。多くの蜜を出し、ハナアブやチョウなどの昆虫にとって重要な吸蜜源となる。

 

1.地域と生息環境

アザミ属は北半球の温帯から亜寒帯にかけて広く分布しており、世界中に約300種、日本だけでも100種以上の固有種や変種がある。

 

1‐1.主な生息地

野原、道端、海岸、高山帯まで多岐にわたる。

 

1‐2.日本の特徴

日本はアザミの多様性が非常に高い地域として知られている。例えば、春に咲く「ノアザミ」は日本中で一般的に見られるが、秋に咲く種は地域ごとに細かく分化しており、その土地固有の種が多く存在する。

 

2.アザミの花が見られる時期

日本に自生するアザミの多くは秋に咲くが、春に咲く代表的な種も存在する。

 

2‐1.春から初夏(5月〜7月)
この時期に咲くのは、主にノアザミ(野薊)。

 

2‐1‐1.特徴

日本の野山で春に紫色の花を咲かせているアザミのほとんどは、このノアザミ。

 

2‐1‐2.分布

本州、四国、九州の原野や河川敷などに広く分布。

 

2‐2.秋(8月〜11月)
アザミ属の圧倒的多数の種(ノハラアザミ、ヨシノアザミ、タイアザミなど)はこの時期に開花。

 

2‐2‐1.特徴

地域ごとに独自の進化を遂げた「地域固有種」が多く、場所によって見られる種類が細かく分かれているのが秋のアザミの面白さである。

 

2‐2‐2.分布

高山帯から海岸線まで、それぞれの環境に適応した種が全国で見られる。

 

生命力を象徴するような紫の「曲線」が柔らかに広がる一方で、その周囲を厳格にガードする「とげとげしさ」が、視覚的なインパクトを与えています。生存のために獲得した防御と、命を繋ぐための誘引システムが、一つの球体の中に同居しています。このきれいな構造を、「フラクタル構造」として抽出してみます。

 

見えない不安を構造化し、価値を再定義する

 

「不動産の事故物件ってありますよね。その部屋や建物について、再運用時には家賃が目減りしてしまうことで資産価値が減少します。その資産価値を相場に戻すための調査会社をやりたいと思っています」(『事業内容:オバケ調査 - 事故物件を科学的に調査する会社で起きたこと』,児玉 和俊,位置: 991)

 

不動産の価値を「収益還元法」に基づき、月数万円の賃料下落が数百万円の資産価値損失に直結するという事実。この経済合理性が、オバケ調査という一見非科学的に見える手法に、強固な論理的基盤を与えています。

 

「心理的瑕疵」という実体のない不安を、科学的な調査と不動産ビジネスの論理で解体していく。著者の児玉和俊氏が立ち上げた「株式会社カチモード*1」の歩みは、単なるオカルト探究ではなく、「価値の再定義」。日常のトラブルを「感情」で捉えるのではなく、一つの「システム」として構造的に把握しようとしています。

 

「まずは全ての事実を受け入れ、それを使って問題を解いているうちにわからない内容も理解できるはず」(位置: 502)

 

児玉氏が資格試験の勉強中にたどり着いた「わかるわからないではなく、まずは全てを受け入れよう」という心境。科学的な機材(映像、音声、電磁波、サーモグラフィー)を駆使してデータを収集する一方で、その場に流れる「重苦しさ」をも一つの事実として受容する。この「フラットな対峙」は、恐怖や不安に呑まれず、かといって対象を軽んじてエンタメ化もしない。

 

事故物件で亡くなった方を「気持ちの悪い存在」として切り捨てるのではなく、「誰かの大切な人である」と捉え直す倫理観。

 

「そこで亡くなった方は気持ちの悪い存在ではなく、誰かの大切な人である」(位置: 1,921)

 

報告書という形で事実を整理することで、入居者の不安は和らぎ、オーナーの資産価値は守られる。科学的な調査という「無機質なプロセス」の先に、人間としての尊厳を回復させる「温かな着地点」が用意されている。得体の知れない不安を構造化し、価値を再定義する。

 

 

*1:「価値をもどす」が社名の由来

局所的な対症療法からの脱却

 

責任逃れと現状維持のシステム。

人間があるかぎり、あらゆる時代において人間の畜群があった。(中略)他に命令しえんがために、あたかもかれら自身が何者かに仕えているかのごとくに思いこむ。この現象は今日ヨーロッパでは事実として存在している。私はこれを命令者の道徳的偽善とよぶ。命令者たちはおのれの疚しさをごまかさんがために、自分は古くつたわる高き命令の(祖先・憲法・正義・法律・しかのみならずときには神の)遂行者である、というかのごとくに振舞う。あるいは、畜群の考え方から畜群的格言をかりて、「国民の第一の公僕」とか「全体の福祉のための機関」だとか自称する。他方において、現代のヨーロッパにあっては、畜群的人間が、おのれが唯一(ゆいいつ)のゆるされた種類の人間であるかのような顔をしている。そうして、温順な妥協的な畜群にとって有用な存在にまでかれらを化せしめた性質を、これこそ人間的な美徳であると讃美(さんび)する。すなわち、公共心・善意・顧慮・勤勉・節制・謙譲・寛容・同情の類である。しかして、指導者と嚮導(きょうどう)の羊がなくてはならぬと思われるときには、現代人はありとあらゆる工夫をこらして、中で利巧な畜群的人間をよせ集めて命令者の代用品とする。(『善悪の彼岸』ニーチェ,新潮文庫,P.164‐166)

 

指導者層…命令者…の道徳的偽善

リーダーとは本来、自身の意志で決断を下し、その結果に責任を負う存在。だが、命令者がそのやましさを回避するため、外部の権威を隠れ蓑にする。「ルール(法律や憲法)だから」「全体の福祉のためだから」と大義名分を掲げることで、「自分がそうしたいから命じる」という主体的な意思決定を放棄している。システムや規則の執行者に擬態することで、決断の責任の所在を曖昧にする。

 

同調圧力の美徳化

集団(畜群)を波風立てずに維持するために都合の良い性質が、普遍的な「美徳」としてすり替えられる。公共心、善意、勤勉、謙譲、同情といった性質は、個人の突出を抑え込み、システムを摩擦なく稼働させるための潤滑油として機能する。この傾向が強くなると、波長を合わせ、集団の和を乱さないこと自体が目的化し、構造的な課題の解決やシステム自体のアップデートは阻害される。

 

指導者の代用品

システムが極端に自己保存へ向かうと、独自の意志で現状を打破しようとする真のリーダーは、排除されやすくなる。しかし集団には先導役が必要である。そこで選ばれるのは、既存のルールや同調圧力に最も過剰適応した「利口な羊」です。「利口な羊」は調整能力に長け、現状のシステムを延命させることは得意だが、新たな方向性やビジョンを提示する機能は持っていない。

 

真空と代償作用

4 他者のおなじ箇所を殴りたいという欲求。自分の苦しみをそっくり他者にもこうむらせたいという願望。(社会が不安定な時期はべつとして、)みじめな境遇の人びとの怨嗟えんさは同類の人びとへとむけられる。これが社会を安定させる一因である。

 

8 (中略)赦すこと、ヴァレリー。できるはずもない。だれかがわれわれに悪をはたらくとき、われわれのうちに反作用が生じる。意志的な忘却。報復の願望とは均衡を求める願望である。不均衡を受けいれ、そこに本質的不均衡の形象をみるべきだ。これとは異なる次元もしくはより大きな規模においてこそ、均衡を求めねばならない。

 

10 均衡を求めるのはよくない。想像上の営みにすぎぬから。報復。たとえ現実に敵を殺害または拷問しても、ある意味で想像上のものにとどまる。(『重力と恩寵』シモーヌ・ヴェイユ,岩波文庫,P.18‐21)

 

人間が苦痛や理不尽(真空)を与えられた際、それをどう処理しようとするのか?

 

苦痛の転嫁によってシステムを維持させようとする

自分自身(あるいは自分の所属するシステム)に負の入力(苦痛)があった際、人間は自身の内側に生じた不均衡を相殺しようと、最も抵抗の少ない場所、つまり同等かそれ以下の立場の者へ同じ負荷をパスする。理不尽なストレスを抱えた人間が、立場の弱い相手に当たって溜飲りゅういんを下げる。これは、悲惨なバグの連鎖である。しかし、全体的に眺めると、不満が社会の根本構造へとむかわず、下層で循環して処理される。よって、「社会を安定させる一因」となる。

 

報復は「想像上の均衡」

攻撃されたから攻撃し返すという反応は、損なわれた自己のバランスを取り戻すための自動的な代償作用である。しかし、相手を物理的・社会的にどれほど痛めつけたところで、自身の内側に生じた「真空(欠落)」が直接埋まるわけではない。帳尻が合ったように錯覚するだけで、実態は「想像上の営み」に過ぎない。他者にマイナスを与えても、自分のマイナスがゼロに戻るわけではない。

 

根本的原因はなにか?をみつける

「不均衡を受けいれ」「異なる次元もしくはより大きな規模においてこそ、均衡を求めねばならない」。目の前の相手と「同じ土俵で殴り合う」のではなく、視点とスケールをずらすこと。不公平や理不尽が生じた際、特定の個人を責めたり報復したりする局所的な対症療法に終始するのをやめる。どうして、その不均衡が生じるのかという根本的な環境や本質的不均衡を直視する。そして、より上位のシステム改修によって全体のバランスを取り直す。

 

 

 

苦痛を「素材」に変える思考

道徳的な現象というものはまったくない。あるのは、現象の道徳的な解釈だけである(『善悪の彼岸』ニーチェ著,新潮文庫,P.122)

 

物事そのものに「良い・悪い」というラベルが貼られているのではなく、人間が自分の都合や立場からラベルを貼っているに過ぎない。

 

 

すべて深いものは仮面を愛する。もっとも深いものは形体や比喩に対して憎悪すらもっている。「逆」こそは、それを着て神の羞恥が歩くべき、まさしき仮装ではないか?(『善悪の彼岸』ニーチェ著,新潮文庫,P.75)

 

本当に深遠な思想や激しい苦痛は、言葉や形にした瞬間にその本質が損なわれる。深い精神を持つひとは、自分の内面が他人の浅い理解や安易な同情によって汚されることを極端に嫌う。そのため、あえて自分の本質とは異なる「仮面」をかぶり、周囲の視線をそらそうとする。彼らにとって、誤解されることはむしろ「身を守るための安全策」である。どんなに優れた言葉や比喩を使っても、深い真理を完全に記述することはできない。形に当てはめた瞬間に、それは「固定された嘘」や「陳腐なもの」に成り下がる。深淵を知るひとは、こうした不完全な表現手段に対して、嫌悪感に近い不信感を抱いている。「羞恥(人に見せたくない核心)」を隠すための最も確実な方法は、単に隠れることではなく、自分の本心とは正反対の人物を演じることである。

 

人間のうちには、被創造物と創造者が合一している。(中略)なんじらはこの対立を解しうるか?また解しうるか、なんじらの同情はただに「人間のうちなる被創造物」にむかってのみ発せられるものであり、これこそはむしろ形成され、打破され、鍛えられ、裂かれ、燃やされ、熱せられ、精錬されうべきものであることを?(『善悪の彼岸』ニーチェ著,新潮文庫,P.224)

 

被創造物は、「壊れやすい私」のことを指していると考えられます。苦痛を感じ、環境に左右され、形を与えられる「受動的」な存在である。

 

創造者は、「形成する力」…つまり意志を持ち、価値を与え、素材を加工する「能動的」な存在であり、自己を乗り越え、高みを目指す力である。

 

同情とは、他者の苦しみを取り除こうとする行為。しかし、ニーチェは、その同情は人間の「被創造物」としての側面しか見ておらず、「かわいそうだ」「苦痛をなくしてあげよう」という態度は、人間をただの「守られるべき弱き素材」として扱い、その裏側にいる「創造者」を無視していると考えている。

 

「打破され、鍛えられ、裂かれ、燃やされ」…とは、創造者としての彫刻家として、大理石を削り、刀鍛冶が鉄を炎で焼くように、人間が「より高次の存在」へと進化するために、古い自己(被創造物としての自分)を破壊し、苦痛という熱で精錬しなければならないと考えた。

 

だから、「同情」は、そのような創造者としての行為を邪魔するものであり、安易な「同情」で苦痛を取り除くことは人間の尊厳を損なうことにつながると説いている。