北九州市若松の洞海湾入り口に存在する「軍艦防波堤」は、第一次および第二次世界大戦で運用された3隻の駆逐艦(柳、涼月、冬月)を基盤としてつくられています。(柳、涼月、冬月)の軍艦はもともと、海中や空からの脅威を排除する軍事システムとして運用されていました。それが、どうして、いま防波堤としての役割へとかわったのでしょうか?

場所:福岡県北九州市若松区響町
座標値:33.930390,130.822349

1.それぞれの艦は、いつごろ運用されていたのか?
史料『若松軍艦防波堤物語』(松尾敏史作)P.22-23と、現地の案内板を参照して、各軍艦の運用期間(竣工から除籍まで)をまとめてみると以下のようになります。
1-1.柳
1917年(大正6年)5月5日竣工 〜 1940年(昭和15年)4月1日除籍。
>竣工した1917年は第一次世界大戦の期間中で、実際に柳は、ヨーロッパ戦線の地中海へ派遣され任務に従事しています。1940年の除籍は第二次世界大戦の初期にあたり、日本の太平洋戦争開戦(1941年)の前年です。
1-2.涼月
1942年(昭和17年)12月29日竣工 〜 1945年(昭和20年)11月20日除籍
1-3.冬月
1944年(昭和19年)5月25日竣工 〜 1945年(昭和20年)11月20日除籍
>涼月・冬月の運用時期は、第二次世界大戦(太平洋戦争)の時期に該当し、どちらの艦も、竣工から除籍まで、すべて太平洋戦争の期間内に含まれています。
2.どういう目的で運用されていたのか?
2-1.駆逐艦「柳」(桃型駆逐艦)
2-1-1.建造目的
「水雷艇」や「潜水艦」から、主力となる大型軍艦を防衛するためです。当時の主力艦にとって死角となる、高速で接近する小型艇や海中からの攻撃を「駆逐(追い払う)」する機能として、高速性と機動性が与えられました。
2-1-2.運用実績
第一次世界大戦時、同盟国イギリスの要請により地中海へ派遣されました。 ドイツ軍の潜水艦(Uボート)の攻撃から連合国の輸送船団を守る護衛任務に従事し、「地中海の守護神」と称される実績を残しています。
2-2.駆逐艦「涼月」「冬月」(秋月型駆逐艦)
2-2-1.建造目的
「航空機(爆撃機・雷撃機)」から、主力艦を守るための「防空駆逐艦」として建造されました。 第一次大戦以降、海戦での主な脅威が潜水艦から、航空母艦や航空機へと移行した変化に対応した設計です。対艦攻撃力よりも対空戦闘能力に軍艦機能を振り分けて、高角砲(対空砲)をたくさん搭載している点が特徴です。
2-2-2.運用実績
太平洋戦争での、輸送船や空母部隊の護衛任務に投入されました。最終局面では、両艦ともに戦艦「大和」の沖縄海上特攻(坊ノ岬沖海戦)で、おおくの米軍機から大和を守る直衛艦として運用されました。
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同じ「駆逐艦」ではあるのですが、時代とともに「脅威」が「海中」から「空」へとうつってきたことに伴い、そのシステム構成(装備)が最適化されていっています。
3.これらの艦に乗艦していて、犠牲になったかたたちは何名くらいいるのか?
手元にある史料では、それぞれの艦の運用期間、全体を通した戦死者の総計は記載されていませんでした。しかし、確認できる特定の作戦や事象における犠牲者数は以下の通りです。
3-1.柳
第一次世界大戦時に同艦が所属し、地中海に派遣された日本艦隊(第二特務艦隊)全体で78名の戦死者がでました*1。「柳」単独での犠牲者数は資料内に明記されていません。
3-2.涼月
1944年1月16日、輸送作戦中に米潜水艦からの魚雷が命中し、艦の前部と後部を喪失。その際、「艦長瀬尾昇中佐以下多数が戦死」したと記載されていますが、具体的な人数は不明です*2。
1945年4月の戦艦「大和」沖縄特攻(坊の岬沖海戦)において、米軍機の150キロ爆弾が命中した際の被害として、戦死57名、負傷34名を出したことが記録されています*3。
同海戦からの帰還プロセスにおいて、浸水を防ぐために内側から防水区画をふさぎ窒息死した3名を含め、艦を救うための「多くの犠牲者」がいたことが言及されています。
3-3.冬月
1945年4月の戦艦「大和」沖縄特攻において米軍機のロケット弾2発を受けましたが、いずれも不発であり、被害は少なく戦死者は12名にとどまったと記録されています*4。
4.これらの戦艦は、戦後どのような経緯で「軍艦防波堤」となったか?
3隻の軍艦が「軍艦防波堤」として設置された理由は、戦後の深刻な資材不足と、港湾インフラ整備のために、その構造が最適であったことが挙げられます。軍事兵器としての機能を終えた船体が、土木構造物へと転用されるまでの経緯は以下の通りです。
4-1.資材不足と代替システムの採用
戦後の日本はインフラ復興に必要な資材(鋼材やコンクリート)が極端に不足していました*5。重要な港湾…つまり洞海湾のような港に、通常の防波堤を建造するには、当時で数十億円の費用と、長い工期が必要でした。これに対し、残存する巨大な軍艦の船体を沈めて防波堤の土台とする手法は、それに比較してわずかな経費と期間で目的を達することができる合理的な手段として国会でも議論され、採用されました*6。
4-2. 機能の無効化と構造転換
防波堤への転用よりもまえの時期に、旧佐世保海軍工廠などで、軍艦に設置されている武装や上部構造物(大砲、機銃、艦橋など)が徹底的に取り除かれました。沖縄特攻で大破した「涼月」、戦後に門司港内で機雷に触れ後部を喪失した「冬月」、すでに旧式化し除籍されていた「柳」は、戦闘システムとしての役割をとりのぞかれました*7。
4-3. 若松への沈設プロセス
1948年(昭和23年)の5月から7月にかけて、これら3隻の船体は若松の洞海湾入り口の所定の配置へと運ばれました。湾岸線に沿って船体を配置した後、船内に海水を注入して海底に着座させ、防波堤としての役割を与えました*8。
4-4. コンクリートによる埋設と現在の姿
沈設後はそのまま長年月を経ていましたが、荒波や塩害による船体の腐朽・崩落の危険を避けるため、後年になって構造の固定化工事が行われました。
4-4-1.涼月・冬月
船体の大半が丁寧に解体された後、コンクリートで完全に埋設されました。現在、この2隻は地下の基礎構造として機能しており、外観から船体の形を視認することはできません。
4-4-2.柳
3隻の中で一艦、「柳」だけはコンクリートで覆われることなく、現在も鋼鉄製の船体の輪郭が地上で確認することができます。




*1:https://www.japanjournals.com/feature/survivor/4989-ww1-13414617.html?limit=1&start=3
*2:『若松軍艦防波堤物語』P.22
*3:『若松軍艦防波堤物語』P.12
*4:『若松軍艦防波堤物語』P.16
*5:Constructing the Construction State: Cement and Postwar Japan - Asia-Pacific Journal: Japan Focus
*6:『若松軍艦防波堤物語』P.28
*7:『若松軍艦防波堤物語』P.15-16
*8:『若松軍艦防波堤物語』P.30

















