日々の”楽しい”をみつけるブログ

福岡県在住。九州北部を中心に史跡を巡っています。巡った場所は、各記事に座標値として載せています。座標値をGoogle MapやWEB版地理院地図の検索窓にコピペして検索すると、ピンポイントで場所が表示されます。参考にされてください。

山神社の宝篋印塔(ほうきょういんとう) 大分県豊後高田市黒土

大分県、国東半島(くにさきはんとう)の黒土という地区に山神社が鎮座します。山神社の参道脇に、供養塔の一種である宝篋印塔(ほうきょういんとう)がまつられていました。

場所:大分県豊後高田市黒土

座標値:33.596142,131.556593

 

やや小ぶりな宝篋印塔の塔身部分には、4つの各面に梵字がきざまれています。案内板によると、金剛界の四仏である不空成就如来(ふくうじょうじゅにょらい)、阿閦如来(あしゅくにょらい)、宝生如来(ほうしょうにょらい)、阿弥陀如来(あみだにょらい)の梵字が刻まれているとのことです。

 

また「永正十三年丙子三月十日」「願主敬白 三郎太郎」の文字が刻まれているとのことです。永正十三年は西暦1516年で室町時代。この年の干支は丙子(ひのえね)です。

正面から撮影



国東半島の基盤になっている岩石がみられる場所 大分県国東市国東町小原

場所:大分県国東市国東町小原

座標値:33.542097,131.744465

 

大分県、国東半島(くにさきはんとう)に黒津崎(くろつざき)という場所があります。「崎」という文字がついているとおり、海岸につきだした岩場です。黒津崎は国東半島の東端にあたります。

国東半島は、その大部分が安山岩(あんざんがん)という、地下のマグマが地表近くで急速に固まってできた岩石で覆われています。安山岩は火山岩に分類されます。地形図naviで場所を確認してみると、オレンジ色で示された部分が安山岩・玄武岩質安山岩という岩石で構成されていることがわかります。

そんななか、黒津崎で限定的に、花崗閃緑岩(かこうせんりょくがん)という岩石がみられます。下の地質図naviをみてみると、赤色で示された場所です。

花崗閃緑岩は、マグマが地下深くで、ゆっくりと冷えて固まった岩石に分類されます。花崗閃緑岩は深成岩に分類されます▼

つまり、国東半島は大部分が火山岩であるのに、黒津崎だけ種類のことなる深成岩がみられるということになります。どうして、このようなことが起きるのか?

 

大分県ホームページの、こちらの資料を参照してみます。

 

もともと、大分県 国東半島の下には基盤として領家帯(りょうけたい)という地盤があり、その地盤のうえに、あとから新しい溶岩が覆ったということが示されています。

 

大分県における領家帯の変成岩・花崗岩類は新期の火山岩類に広くおおわれ,わずかに国東半島と朝地地域にみられるにすぎない。ボーリング調査では豊肥火山地域の基盤をなしていることが知られている。国東半島の変成岩・花崗岩類は日豊本線中山香駅から安岐町安岐ダム付近までと国東半島東海岸の黒津崎から臼石鼻にかけての地域に分布するが,新期火山岩類におおわれて点在的に分布するにすぎない。

 

参照:PDF大分県の地質と地形,P.5

 

「新規火山岩類」というのは、つまり、国東半島の中央部に位置する両子山(ふたごやま・ふたごさん)から噴出された溶岩と考えられます。イメージ図を下に示します▼

 

では領家帯(りょうけたい)というのはなんなのでしょう?西南日本を関東から九州東部へ横断する大きな断層がはしっています。中央構造線と呼ばれるものです。この中央構造線の北側にある、関東から九州までつづいている帯状の岩盤が領家帯です。

 

参照:中央構造線 - Wikipedia

 

▲国東半島も領家帯に含まれている

 

領家帯を構成する岩盤は、いまから2億130万年前から1億4550万年前につくられたものと考えられています。

 

参照:領家変成帯の岩石 | 大鹿村中央構造線博物館

参照:3.2 対象地域の地質環境

 

この期間はジュラ紀と呼ばれています。ジュラ紀につくられた岩石が、のちの時代である、1億4550万年前から6600万年前である白亜紀に、高温低圧型の変性作用をうけました。こうした作用をうけた岩石のために変成岩と呼ばれます。静岡県の「奥領家」という地名にちなんで、特に領家変成岩と呼ばれます。

 

地質図naviでは、領家帯の一部にふくまれる黒津崎(くろつざき)の岩石は、さらに具体的な形成時期が示されています。後期白亜紀のセノマニアン期~サントニアン期です。つまり約8660万年前~8300万年前です。

 

領家帯を覆う両子山の溶岩は、更新世後期に噴出されたことがわかっています。12万6000年前~1万1700年前です。

 

つまり、国東半島は下のイメージ図のように構成されていると予想されます▼

そして、黒津崎は「覆い」である両子山の岩石が削れ、国東半島の基盤となっている領家帯の岩石が露出している場所であると考えられます。

以下は、黒津崎の風景と、変性作用をうけた岩をご紹介してゆきます。

黒津崎でみられる岩石は、領家変成岩と考えられます。温度と圧力をうけて変性をうけています。領家変成岩の場合は、平行に反対方向への力(剪断応力)をうけているために、岩石に方向性の構造がみられます▼ 岩石に縞模様がみえます。この縞模様(片麻)がみえる岩は片麻岩と呼ばれると考えられます。

 

参照:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%89%87%E9%BA%BB%E5%B2%A9

 

片麻岩のほかに、地下深くでゆっくりと固まってできた花崗閃緑岩(かこうせんりょくがん)もみられます▼

岩をよく観察してみると、白いスジがはしっていることがわかります。これはもしかしたらペグマタイトと呼ばれる構造かもしれません参照。通常の岩石の場合とは異なり、高温のマグマが地下深くでゆっくりと冷めることで、結晶が長い時間をかけて岩の壁にはりついて成長し、このような大きな結晶ができたと考えられます。

「おしり岩」の中央部にも、大きな白いスジがみえる▼

参照:PDF.https://www.pref.oita.jp/uploaded/attachment/2111927.pdf

参照:PDF.豊後杵築地域の地質 

 

見目川のそばに祀られる庚申塔 大分県豊後高田市見目

大分県、国東半島(くにさきはんとう)。見目(みめ)という地区に見目川という川が流れています。川に架かる国道213号線の橋の近くに、庚申塔が祀られています。

 

場所:大分県豊後高田市見目

座標値:33.667509,131.530694

 

主尊は青面金剛で、しっかりと確認してみると4つの顔、6本の腕をもった四面六臂の青面金剛像であることがわかります。青面金剛の頭の上には月日をあらわす丸が刻まれています。

青面金剛の足元を確認しますが、風化が進んでおり、像容をはっきりと確認することはできません。また造立年などの銘も確認はできませんでした。

小林幸弘氏のホームページ『国東半島の庚申塔』では以下のように紹介されています。

 

宮庄橋のたもとに庚申石と思われるいくつかの自然石と共に並ぶ。青面金剛は四面六臂だが細部まで判別するのは難しい。

 

青面金剛(4-6) 2猿 2鶏

 

参照:http://5884koshinto.my.coocan.jp/13kakaji/13017.html

 

貴船社のちかくの山中にまつられる庚申塔 大分県豊後高田市夷

大分県、国東半島(くにさきはんとう)。豊後高田市の夷(えびす)田ノ口という地区に貴船社が鎮座します。貴船社は夷谷温泉(えびすだにおんせん)の北北西約190mの地点に位置します。そして貴船社の拝殿と祠がある場所のやや北側の山中に庚申塔がまつられています。

▼こちらの写真が道から眺めた貴船社の鳥居です。人がよく参拝しているような感じではなく、参道も拝殿もずいぶん荒れていました。

参道自体がヤブに覆われ、ヤブをかきわけながら登ってゆくという感じです。

▼荒れ果てた拝殿内。

▼拝殿の北側をみると数基の石塔がたっているのが確認できました。

場所:大分県豊後高田市夷

座標値:33.608119,131.562112

 

主尊である、おそらく青面金剛像は、ほとんど形をとどめていません。ただ青面金剛像の上側には月日を表す丸形、そして雲が刻まれているのは、はっきりとわかります▼

▼青面金剛の足元には二猿、一鶏が確認できます。もうひとつ像が刻まれているようですが、その形ははっきりと認識できません。

▼庚申塔の周りにある縁部分に、建立年月が刻まれています。元禄十四辛巳天、八月初五日。元禄十四年は1701年、干支は辛巳(かのとみ)です。

小林幸弘氏のホームページ『国東半島の庚申塔』内で、同じ庚申塔を紹介されているページを確認してみますと、この庚申塔の隣に、もう一基庚申塔があることがわかります。番号「13043」の庚申塔です。

 

自分で撮った写真を確認してみると、番号13043の庚申塔は倒れて、今回の庚申塔の隣にあることがわかりました。

 

むかし棚田があった場所? 大分県豊後高田市夷

庚申塔を探しに以下の場所へといってみました。庚申塔は見つかりませんでしたが、むかしの棚田の跡らしき石垣が、段々になるように積まれているものが残っていました。

 

場所:大分県豊後高田市夷

座標値:33.605706,131.560555

石垣の間は、規則正しく配置されています。そのために畑か田が、ここにはつくられていたのではないかと考えられます。国土地理院地図で昔の航空写真を確認してみます。1960年代の写真です。西から東にむかって段々と降りてゆくように、棚田らしきものが確認できます。計測してみると、棚田らしきものの一番奥(一番西側)から、一番下の集落(一番東側)まで、約350mほどあります。

 

いっかくに残されていた石祠▼

国東半島の大部分を覆う安山岩 大分県豊後高田市夷

以下は、大分県の国東半島(くにさきはんとう)、豊後高田市の夷(えびす)という地区で撮った写真です。山の斜面で、半島を構成する岩石が露わになっています。

場所:大分県豊後高田市夷

座標値:33.606293,131.560532

 

地質図naviで国東半島を確認してみると、その大半が安山岩(あんざんがん)で構成されていることがわかります。

 

国東半島の中央部高地を構成する両子火山群は角閃石・両輝石安山岩,角閃安山岩,黒雲母・角閃石石英安山岩などからなり,更新世後期の噴出堆積物といわれている。(参照:『PDF 国東半島東部地域の海岸地形と海浜堆積物について』P.3‐287)

 

安山岩は、二酸化ケイ素の含有率が比較的すくなく、灰色~黒っぽい色をしています▼

国東半島の中心部に位置する両子山(ふたごさん・ふたごやま)から噴出した溶岩により、半島の大部分が覆われています。溶岩が噴出していた時期は、今から12万6000年前~1万1700年前の時期である更新世後期です。その溶岩が、現在も地面から顔をだしており、その一部が写真のようなかたちで見ることができます。