日々の”楽しい”をみつけるブログ

福岡県在住。九州北部を中心に史跡を巡っています。巡った場所は、各記事に座標値として載せています。座標値をGoogle MapやWEB版地理院地図の検索窓にコピペして検索すると、ピンポイントで場所が表示されます。参考にされてください。

「見ている」けど「見えていない」ということを認識する

たしか2022年10月30日の「大分合同新聞」の記事だとおもいますが、「見えない石碑」という記事がありました。とても感銘を受けた記事です。

 

”視界には入っているけど、興味がないものは認識できない。だけど、興味を持ちはじめると「見えてくる」”という主旨で書かれた記事です。その例として、「中島製粉機発祥地」と刻まれた石碑が挙げられていました。この石碑のそばには、案内板もなにもなく、石碑はただ花壇に置かれた”横長の石”なのだそうです。でもこの石碑のことを調べていくうちに、西大分という地に、筆者の知らなかった歴史が見えてきたということです。

 

参照:この本大分本「見えない石碑」

この記事に刺激をうけて周囲を見渡してみると、意外にも道端にたくさんの石碑や記念碑などがあることが認識できます。それぞれ、設置された方々の想いが込められているのだと想像します。

 

こちらは、福岡県北九州市八幡西区熊手という地区にある記念碑です。

座標値:33.862229,130.764517

 

記念碑

 

思いは遠く西の海にあり

 

幾万人の人びとの夢と希望の足跡をこの地に見る

 

われもまた浅年月の過ぎし日は

 

新たなる志ざし

 

ここにある

 

ああ長崎街道

 

平成二十六年一月吉日

吉浦興産株式会社

吉浦久行

わたしは歌になじみがないのですが、自分なりに解釈すると…

 

「長崎街道の通るこの北九州の地で、新しい志をもって再出発をしよう」という決意を表しているのではないかと想像しました。「西の海」というのは”浄土”という意味があるので参照、日常のいざこざあれこれには目を向けず、「高い志(こころざし)を持って」「達観して」という意味を含んでいるのでしょうか。

 

しかし、ネットで調べてみると、この歌を詠んだかたの解説が紹介されていました。

 

参照:役員 ・各委員長 活動報告 2016-2017 | 北九州小文字ライオンズクラブ

 

「西の海」というのは、その文字通り北九州の西側の海という意味で、「浄土」という意味ではなく、作者の故郷である五島列島を指していることがわかりました。

 

この記念碑の北側約90m地点に、長崎街道に架かる橋「乱橋(みだればし)」があります。そして記念碑の西南西約110m地点には、長崎街道「曲里(まがり)の松並木入口」があります。

 

とても長崎街道と関わりのある場所に記念碑が建ってることがわかります。記念碑自体は建設業を営む業務の一環で、建てられたのかもしれませんが、近代の記念碑でもよくよく調べてみると、その地域の歴史が垣間見れることが認識できます。

巨大な”やぐら”がシンボル「海軍志免炭鉱跡」 福岡県糟屋郡志免町志免

2022年7月31日に、福岡県の糟屋郡(かすやぐん)にある「志免炭坑跡(しめたんこうあと)」を訪ねました。志免町の炭鉱に関する史跡をめぐって、のちに調べながら記事を書いていると…

 

戦時中は軍艦の燃料として石炭が多量に必要であったこと、筑豊だけでなく糟屋郡にもたくさんの良質な石炭が採れていたこと…などがわかってきました。

 

下の図は志免炭坑跡における、現在の配置図です。現在はシーメイトという福祉施設内に、これら志免炭坑の史跡が保存されています。

第八坑連卸坑口跡

場所:福岡県糟屋郡志免町志免

座標値:33.591153,130.486485

 

下に記している案内板の説明を読んでみると、この坑口からは、トロッコを使ってボタ(廃棄する石)を坑内から出したり、人や資材を運び入れたり出したりしていたということです。トロッコを稼働させるためには、巻上機というのが必要で、これが坑口からすこし離れた場所に設置されていたということです。炭坑の穴が開いている方向に100m進んだ場所に巻き上げ機があったと思われます。

第八坑連卸坑口(だいはちこうつれおろしこうぐち)

1938(昭和13)年に完成した煉瓦製の坑口で、隣の本卸坑口と対になっています。 傾斜角は30度、 延長距離は929.1mありましたが、現在では内部で閉じられ中に入ることはできません。本卸坑口よりもわずかに小さい高さ3.15m、幅4.5mのコンクリート製アーチ構造で、 巻上機が坑口からおよそ100mの位置にあって、 トロッコを使って硬や資材、 あるいは人を運んでいました。 ここから運び出された硬(ぼた)は、 北側にあるぼた山へ積み上げられました。 ほかにも排気や本卸との連絡、 配水などさまざまな用途で使われていました。

写真と第八坑連卸坑口の構造図

第八坑本卸坑口跡

座標値:33.590941,130.486409

上記の、第八坑連卸坑口(だいはちこうつれおろしこうぐち)と対になって設置されていたのが、第八坑本卸坑口(だいはちこうほんおろしこうぐち)という設備で、こちらは、傾斜角度30°の連卸坑口と比較し、傾斜角度40°とやや急な出入り口になっています。人が出入りする坑口ではなく、掘り出された石炭を運びだすための坑口だったようです。

 

下の図のピンク色に着色しているのが、ここまでご紹介した2施設の位置関係です。

 

第八坑本卸坑口(だいはちこうほんおろしこうぐち)

1938(昭和13)年に完成したコンクリート製の坑口で、高さ3.2m、 幅4.5mのアーチ構造をしています。 傾斜角は40度、延長距離は690.8mありましたが、 今は坑口上面で閉じられています。本卸坑口は石炭の運び出しと、 空気を送るための坑道として使われていました。 その特徴は運搬設備にあります。それは掘った石炭を入れて運んでくるスキップという箱が、坑道を出たところにある櫓でひっくり返り、中の石炭はその下を走っているベルトコンベアーに落とされて、そのまま西側にあった選炭場まで運ばれるという仕組みでした。

写真と第八本坑本卸坑口の構造図

第五坑西側坑口跡

座標値:33.591085,130.486183

 

この坑口は、前記した第八坑連卸坑口とは異なり、穴は小さめです。傾斜角は5°と少なく、人の出入りも可能のように感じます。しかし、案内板をみると石炭を輸送することがメインの坑口であったようです。

他施設との位置関係を下図に示します。人の出入りも考慮した穴が「第八坑連卸坑口」で、そのそばにある二つの坑口は物資や石炭を出入りさせるためのものだったようです。坑口はその広さによって、使い分けされていたのですね。

第五坑西側坑口
坑口は高さ2.5m、幅3m。 コンクリート製のアーチ構造です。5度の傾斜で地下に伸びる坑道には10mおきに台座があって、周辺からベルトのようなゴム片が見つかったことから、 ベルトコンベアーのための坑道だったとみられています。竪坑から掘り上げられた石炭は、 北に延びる約70mの地下道を運ばれ、この坑道を通じて選炭場まで送られていたものと考えられます。

 

 

 

 

志免鉱業所竪坑櫓

最後に、志免炭鉱のシンボルともいえる竪坑櫓(たてこうやぐら)をご紹介します。47.6mもの高さがあり、下側が格子状で、上側がコンクリートビルのような異様な形態です。しかも、メインのビルに次々と小さなビルが継ぎ足されたように、表面はボコボコとしています。この櫓(やぐら)は、どのような機能をもっていたのでしょう?

場所:福岡県糟屋郡志免町志免

座標値:33.590372,130.486287

 

 

戦争中、軍艦の燃料として使用される石炭の消費量が多くなり、志免炭鉱でも石炭の増産が急務となりました。そしてより深く炭坑を掘る必要がでてきました。1943年(昭和18年)には、竪坑(たてこう)が深さ400mにまで達しました。その深さから石炭を巻きあげるためと、人員を出入りさせるために、このような巨大な施設が必要となりました。

 

参照:『新装改訂版 九州の戦争遺跡(江浜明徳著)』P.32

おそらく、上部のビルの内部に巻上機が設置され、これによりーブルにつながれたケージが上げ下げされていたと考えられます。現代でいうエレベーターのような感じでしょう。志免町のホームページに、その構造が紹介されています。

 

参照:志免町ホームページ‐旧志免鉱業所竪坑櫓-

以下は、案内板の引用です。

 

北部九州には多くの炭田があり、 近代になると大量の石炭が掘り出され、石炭は日本が新しい国家に生まれ変わるためのエネルギー資源となりました。 なかでもここ糟屋炭田の石炭は良質であったため、海軍は1889(明治22)年、志免鉱業所の前身にあたる新原採炭所を設立し、 軍艦や工業用の燃料として石炭の生産を始めます。俗に「海軍
炭鉱」と呼ばれたこの炭鉱は、 大正から昭和初期にかけて郡内一の繁栄を誇り、 戦後も日本国有鉄道志免鉱業所となり一貫して国が保有し、 蒸気機関車の燃料などを生産し続けました。 最盛期には従業員6千人、年間50万トンの出炭量がありましたが、石炭から石油へといういわゆる「エネルギー革命」時期に縮小にむかい、1964(昭和39)年にその歴史を閉じることになりました。ここは糟屋炭田一帯に広がる石炭産業遺跡群のうち、 志免鉱業所の竪坑と第八坑などに関連した施設があった地区です。地表に近い層の石炭をほぼ採り終え、満州事変後の国際的な緊張が石炭増産の機運を盛り上げるなか、より深い層の石炭を採掘するため、 坑道を垂直に開けた竪坑と斜めに開けた第八坑が掘られました。 第八坑の設備は1940(昭和15)年3月に完成、1943(昭和18)年には竪坑との間の連絡坑道が地下深いところで結ばれました。隣りあう施設は、石炭生産の集約された最盛期のようすを今に伝えています。 この区域の東側(現在のシーメイト敷地内)は、発電所や事務所などがあったところで、 その先には住宅が建ち並ぶ人々の生活の場がありました。

 

志免炭坑で掘り出された副産物であるボタは、炭坑の北側に廃棄され、ボタ山となりました。現在では何も建物が建っていない荒地となっています。

いちばんはじめの海軍専用炭鉱「新原採炭所」 福岡県糟屋郡須惠町新原

「海軍炭礦創業記念碑」と刻まれた石碑が、福岡県糟屋郡(かすやぐん)の須惠町(すえまち)にあります。この石碑は、新原(しんばる)採炭所が設置されて50周年に、記念してつくられた石碑です。

場所:福岡県糟屋郡須惠町新原

座標値:33.577797,130.510897

 

「海軍炭礦」と書かれているとおり、新原採炭所は海軍の艦船に使用する石炭を掘るための炭鉱であったようです。海軍専用の炭鉱として、同地域には志免炭鉱(しめたんこう)があります。志免探鉱は、巨大な”やぐら”である「志免鉱業所竪坑櫓」の奇怪な造形のインパクトが強く、とても有名になっています参照

志免鉱業所竪坑櫓

場所:福岡県糟屋郡志免町志免

座標値:33.590371,130.486297

 

 

いっぽうで、海軍炭鉱として一番はじめに開坑したのが「新原(しんばる)採炭所」です。

 

日本海軍の維持管理をしていた「海軍省」は、軍艦用の石炭を、イギリスから輸入していました。しかし、自国のエネルギー源を海外からの輸入に頼るのは危険だと海軍省は判断しました。そこで、1886年(明治19年)に、全国で採れる石炭のうち、軍事的に使用してもだいじょうぶだと判断されるものを探しはじめました。

 

その結果、福岡県糟屋郡の新原(しんばる)地区で採れる石炭が、良質であると判断されました。1888年(明治21年)に、新原地区が「海軍予備炭山」に指定され、同地に新原採炭所が設置されました。そして、1889年に「第一坑・第二坑」が掘られることとなりました。

 

参照:『新装改訂版 九州の戦争遺跡(江浜明徳著)』P.29、30

 

以下に、新原採炭所の略歴を示します。1964年(昭和39年)に閉坑するまで、76年間の長い歴史があった炭坑です。

 

参照:『志免町ホームページ‐志免鉱業所の歴史-

「海軍炭礦創業記念碑」が設置されているのは新原公園です。新原公園は、四番目につくられた坑口である「第四坑」があった場所です。第四坑は1901年に開坑しました。

 

ややこしいのですが、新原公園には第四坑がありましたが、公園内にのこされている「坑口枠」は第三坑のものです。

第三坑の坑口枠には「明治二拾五年五月開坑」の文字が刻まれています。明治25年は西暦1892年です。前記した略歴では”明治26年1月に第三坑は開坑した”とあります。一年ほどのズレがありますが、どういうことでしょう。坑口枠がつくられた時期と、実際に炭鉱が掘られはじめた時期とのズレということなのかもしれません。

「新原採炭所」で掘り出された石炭は、長崎県の佐世保(させぼ)まで運ばれました。佐世保は、1886年(明治19年)に軍港として整備することが決定された町です。


「新原採炭所」で石炭の掘り出しが開始されたのが1889年(明治22年)。1900年に海軍専用の採炭所となり、1901年には第四坑が開坑することとなりました。

 

下に第四坑のあった場所の地形図を示します(参照:今昔マップ)

1922年(大正11年)測図 今昔マップ

海軍炭坑と書かれた場所には採炭所施設らしき建物がずらりと並んでいます。採炭所の南側には鉄道が走っています。現在の「JR香椎線(かしいせん)」です。「しんばる」という駅名も見えます。鉄道が敷かれた当時は、石炭を運ぶための軍用鉄道でした。

この軍用鉄道は、現在の「博多湾鉄道汽船」という株式会社が、敷設したものです。博多湾鉄道汽船は1901年に設立され、当時は「博多湾鉄道」という会社名でした参照。まさに鉄道をつくための会社だったのですね。

 

1922年の地形図を、今昔マップで眺めていると、鉄道沿いに「石炭坑」とか「炭坑」という文字がたくさん見えます。多くの石炭が糟屋郡あたりでは採られていたことがわかります。

 

そしてこれらの炭鉱から採られた石炭は、積出港である西戸崎(さいとざき)へと運ばれました。

 

西戸崎地区

この地区は砂地のために,7~11 世紀にかけて塩屋に製塩と漁業を生業とする集団(海の中道遺跡)の痕跡が見られる。江戸時代万治 3(1660)年,加藤弥左衛門成昌が松の植林に成功して,不毛の砂地から白砂青松の地に変わり,明治 20(1887)年頃は 28 戸の住民が住み,向浜とよばれ自給自足ながら穏やかな生活が営まれていた。この様な生活も西戸崎が石炭積出地として築港され,博多湾鉄道の開通により,人口の急増とともに変化した。明治 42(1909)年には製油所(後に油槽所)設置や昭和 12(1937)年,西戸崎炭鉱開坑により海軍石炭積出港として第二次世界大戦末まで繁栄した。

 

参照:PDF『悠久の歴史と万葉のロマン 志賀島 西戸崎

 

福岡県の糟屋郡には、こんなに多くの炭鉱があったことや、海軍専用の石炭を掘るための炭鉱があったことをはじめて知りました。1800年代終わりから1900年代の前半には、戦争において、軍艦がそれほど重要な位置を占めていたのだということが確認できます。

 

新原公園内には、坑口のあった場所の標識なども残されています。

 

イタリアデザートのような見かけ「須佐ホルンフェルス」 山口県萩市須佐高山

2022年8月22日に、山口県萩市にある須佐ホルンフェルスという珍しい地形を訪れました。ティラミスのような外見のめずらしい地形です。白と黒のコントラストが、こんなにはっきりとしている理由は、どうもその岩のできかたによるもののようです。

場所:山口県萩市須佐高山

座標地:34.647664,131.596270

 

どうしてこのような不思議な地形ができるのでしょう?須佐ホルンフェルスのできかたを、いろんなサイトで調べてみるのですが、「砂泥互層、須佐層群、火成岩体、高山はんれい岩、変成作用」など聞きなれない用語がならび、よく理解ができません。

 

ざっくりと解釈すると…「海の底にたまった泥や砂などが、溶岩の熱をうけて、その組成が変化したもの」が須佐ホルンフェルスということです。

 

簡単な図にすると以下のようになります。

もともと、海底に層状にたまっていた砂や泥に、溶岩が貫入してきました。溶岩の熱を受けて、砂や泥の成分が変化しました。パンをトースターで焼くと、パリパリサクサクになるように、砂や泥もパリパリになったのでしょう。そのパリパリの状態が、ドイツ語で「ホルンフェルス」と呼ばれるようです。



参照したサイト

石ころ鑑定のコツ|長野県デジタル地質図を活用した地学教材開発事業

 

須佐ホルンフェルス(すさほるんふぇるす),日本の奇岩百景+

 

頁岩 - Wikipedia

 

中1地学【地層のでき方・堆積岩】 | 中学理科 ポイントまとめと整理

 

このようにできた地形が隆起してきて、海から顔を出しました。おそらく、海からくる波により、地形についていた余分なものが洗い流され、ホルンフェルスが明瞭に見られるようになったと考えられます。地形図Naviでこのあたりの地形を参照すると、須佐高山では、U字型に「砂岩泥岩互層」と呼ばれる地形がひろがっています。この「砂岩泥岩互層」の西端部である、海岸域に須佐ホルンフェルスが位置しています。草木や土などに覆われて見えませんが、内陸部にもこのようなカチカチの地形がひろがっているのでしょう。

駐車場からホルンフェルスの見える海岸までは、下の写真のような断崖の上を走る遊歩道を歩きます。遊歩道からの眺めもとても良いです。

遊歩道がおわり、海岸におりるまでの行程は、高低差が大きい場所があるため足をすべらせないよう注意します。

写真には、他の観光客のかたがたも写っているので、地形のおおきさがよくわかるのではないかと思います。

大正時代につくられた?船の上陸場 福岡県北九州市若松区浜町

福岡県北九州市若松区の浜町(はままち)の海岸に、石造りの古い護岸と階段状の上陸場が残っています。この護岸についての史料がみあたらず、いつ頃つくられたものなのかなど、詳しい情報はわかりません。

 

場所:福岡県北九州市若松区浜町

座標値:33.904550,130.814634

この護岸から、西南西約460m地点に「弁財天上陸場」という史跡が残されています。弁財天上陸場は、船が発着する場所です。どんな船かというと、船から陸へと荷物を上げ下ろしする港湾労働者(沖仲仕:おきなかし、または「ごんぞう」と呼ばれた)を運ぶ船で、この伝馬船と呼ばれる船が、弁財天上陸場において発着していたといわれています。

 

参照:『北九州歴史散歩 筑前編(北九州市の文化財を守る会 編)』P.14

参照:『若松史 令和3年改訂(若松に玄関をつくる会)』P.30

 

弁財天上陸場は2022年現在では、復元され新しくなっています。いっぽうで、こちらの上陸場の護岸は、みたところ古いまま残されているようです。弁財天上陸場は、大正6年(1917年)頃につくられたとされます*1。石造りであるこちらの上陸場も、使用されている石ブロックの古さから、弁財天上陸場と同時代の、大正初期につくられたものではないかと想像します。もしそうだとすれば、約100年経過したものということになります。

護岸の片面部分は、だいぶ石組みが崩れてしまっています。

対岸から上陸場を眺めます。上陸場の後ろには「若松築港株式会社」、「若戸大橋」がそびえています。

 

*1:若松史P.30

大きな草鞋(わらじ)は何を目的につくられた? 広島県尾道市西久保町

2017年1月に、広島県の尾道市を訪問しました。その際に撮った一枚が下の写真です。摩尼山(まにさん)西國寺(さいこくじ)の山門で、山門の前には多くの草鞋(わらじ)が奉納されています。なかでも目にひくのが2mもの大きさの草鞋です。

 

場所:広島県尾道市西久保町

座標値:34.414483,133.203656


f:id:regenerationderhydra:20221029102604j:image

この草鞋は、どんな理由でこんなに大きなものにする必要があったのでしょう。ネットで調べてみるとすぐにわかります。

 

安置されている2体の仁王(金剛力士像)の健脚にちなんで架けられたもので、草履の大きさは2mもあります。仁王さんのたくましい足にあやかろうと奉納されてきた、坂の多い尾道ならではの健脚祈願です。参照

 

書籍『民間信仰(桜井徳太郎著)』では、西國寺の巨大草鞋とは違う目的で、むかしは大きな草鞋を集落の入口に吊るしていたことが紹介されています。

 

われわれが、田舎を歩き回っているとき、よく部落の入口に、巨大な草履や草鞋の吊されているのを見かけることがある。これは、流行病などが部落内に侵入するのを防ぐための呪いだといわれる。未開人にとっての病災は、すべて悪神悪霊が持ちこむものと観念されていた。そうした悪神は、この巨大な履物をみてその威力に驚歎し、退散してしまう。『民間信仰(桜井徳太郎著)』P.37

 

この文章は、塞の神(さいのかみ)について記述されている箇所です。塞の神は、集落の境などに祀られ、集落へ邪霊が侵入するのをふせぐために祀られてきた神様です。塞(さい)というのは土を盛って外敵の侵入を防ぐ砦(さい)を意味する言葉です。

 

旅から郷里に帰る人を、国境や村境などで出迎えて食べものなどを差し入れていたそうです。そのような行為を「サカムカエ(境迎え)」と呼びました参照。サカムカエは、その名前のとおり集落の中ではなく、集落どうしの境界で行われており、「サエ(境界)」というのが日本人にとって重要な場所であったことが同書*1には示されています。

 

集落の入口に吊るされてきた巨大な草鞋も、塞の神とおなじ効用があると信じられてきたのでしょう。

 

2022年現在では、九州地方の田舎をまわっていても、さすがに巨大な草鞋(わらじ)や草履(ぞうり)を吊るしている光景はみたことはありません。尾道市で拝見した、この巨大草鞋がはじめてです。つくられた目的は、”健脚祈願”であり、”悪疫退散”とは異なりますが、文章の中のものと現物とが結び付いた、私にとってはありがたい草鞋です。もしかしたら、西國寺の山門に吊るされている、この巨大草鞋も「悪疫退散」の願いも込められているのかもしれません。
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八幡東区の祇園原町を通る暗渠 福岡県北九州市八幡東区祇園原町

北九州まちかど探検-八幡東区前田地区の史跡等-』を参照すると、八幡東区の祇園(ぎおん)という地区に暗渠が流れていることが紹介されています。暗渠の入口は、祇園原町(ぎおんばらまち)で、地点は以下の通りです。

 

場所:福岡県北九州市八幡東区祇園原町

座標値:33.859413,130.788753

地形図を確認すると、西台良町を細い川が北側へむかってながれていることがわかります。そして先に示した座標値地点で川が消失しています。川が消失している北側の部分は、2022年現在「さくら通り(前田花尾町一号線)」という名称がついた広い道路となっています。

 

今昔マップで、さくら通り付近の様子を確認してみます。

下の地形図は「さくら通り」にあたる箇所を青く着色しています。昭和25(1950)年ごろまで、さくら通りは整備された川であったことがわかります。川の先…北側…には八幡製鉄所があります。流れてきた水は製鉄所の工業用水として使用されていたのかもしれません。あるいは現在も使用されているのかもしれません。

現在の、暗渠入口ぶぶんの様子は以下のとおりです。

座標値:33.859413,130.788753

 

暗渠入口から、すぐ北側は水の流れていない人工の小川となっています。小川の名前は「せせらぎ川」と命名されているようです。

せせらぎ川のところどころに空気穴のようなものがあいています。この川の下に暗渠が通っていると考えられます。必要なときにだけ、「せせらぎ川」に水を流すのかもしれません。

「せせらぎ川」は以下の地点で消失して、そのすぐ北側には「祇園」交差点があります。交差点の北側には「さくら通り」がさらに北側へと伸びています。

 

座標値:33.861167,130.789299

↑「せせらぎ川」が暗渠と合流しているのか?「せせらぎ川」の延長線上には「さくら通り」が伸びている

↓こちらが「さくら通り」です。この下に暗渠が走っていると想像されます。

現在、暗渠となっている川は、むかし「平野川」と呼ばれていました。平野は地名からきたもので、昔の地図にも、現在の地図にも「平野」という地名は残っています。

この平野川に架けられていた「前田橋」の親柱部分が北九州市立花尾小学校の校庭に残されています。

場所:福岡県北九州市八幡東区祇園

座標値:33.864480,130.788291