日々の”楽しい”をみつけるブログ

福岡県在住。九州北部を中心に史跡を巡っています。巡った場所は、各記事に座標値として載せています。座標値をGoogle MapやWEB版地理院地図の検索窓にコピペして検索すると、ピンポイントで場所が表示されます。参考にされてください。

レンガ造りの大里(だいり)精糖所を訪ねる 福岡県北九州市門司区大里本町

2022年1月4日の記事でご紹介した『関門トンネル関連施設『試掘坑道竪坑』』をたずねた後、すぐ近くにある大里精糖所(だいりせいとうじょ)を訪ねました。小森江駅から眺めると巨大な煙突とともにそびえるレンガ造りの工場が印象的です。

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場所:福岡県北九州市門司区大里本町

座標値:33.914414,130.937506

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吹雪のなかの訪問となった

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1階建てから(見たところ)3階建ての建物があるようです

これらレンガ造りの工場群は、国道199号線の両側にまたがって建てられています。もともとは、国道199号線ができる前から存在する工場群でした。しかし、後に国道がつくられ、工場敷地を縦断することになりました。結果、いくつかの建物もこわされたそうです。

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国道をはさんで反対側(関門海峡側)に建つ工場群

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倉庫として使われているようです

大里精糖所をはじめにつくった鈴木商店の金子直吉

この立派なレンガ造りの建物がつくられたのは、1904年(明治37年)*1のことです。つくったのは金子直吉(かねこなおきち)参照ひきいる鈴木商店です。

 

鈴木商店のはじまり

鈴木商店は、もともと神戸の砂糖取引商でした。1874年(明治7年)に鈴木岩治郎が神戸に洋糖引取商として鈴木商店を創業しました。鈴木商店は、創業神戸八大貿易商といわれるほど、おおきな取引商でした参照。しかし明治27(1894)年、創業者である鈴木岩治郎が亡くなりました。

 

そして鈴木商店を引き継いだのが、のちに大里精糖所をつくりあげる金子直吉(かねこなおきち)です。

 

1899年(明治32年)

金子直吉は”虫よけ剤”をつくるのに必要な材料であった樟脳(しょうのう)*2という原料販売権の大半をにぎるため、後藤新平と手をくみました参照。つくられた虫よけ剤は欧米にも輸出され、大きな利益となったといいます参照

 

1902年(明治35年)

鈴木商店が鈴木合名会社として組織が改変されました。

 

1903年(明治36年)

鈴木合名会社は、神戸市葺合町にあった住友樟脳製造所を買収しました。

 

1904年(明治37年)

事業が軌道にのり、金子直吉(かねこなおきち)は、福岡県の大里(だいり)という地区に、250万円をかけて精糖所を建設しました。(参照:『北九州の近代化遺産(北九州地域史研究会編)』P.48)

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250万円を現在の価値に換算してみるといくらぐらいになるのでしょう?企業物価指数を利用して、明治30年頃の1円が、現在ではいくらくらいの価値になるのか計算してみます。

 

698.8(2019年)÷0.469(1901年)≒1490

 

参照:昔の「1円」は今のいくら?1円から見る貨幣価値・今昔物語|気になるお金のアレコレ:三菱UFJ信託銀行

 

つまり明治30年ごろの1円は現在の約1490円ということが予想されます。すると大里精糖所建設にかけた、当時250万円の価値は、現在の約37億2千500万円ということになります。

 

日本で砂糖がつくられはじめたのは、江戸時代からだといわれています(参照:『砂糖の世界史 (岩波ジュニア新書)』Kindleページ番号137/187)。1894年-1895年の日清戦争後、機械化された近代製糖業ができてきたとはいえ、まだ精糖の歴史が浅かった明治時代は、砂糖はまだ貴重なものだったと考えられます。

 

そんな、需要が大きな砂糖という製品に目をつけ、莫大な投資を金子直吉は行ないました。さらに金子直吉は精糖所にとどまらず、事業を拡大していきます。

 

◇◇◇◇◇

 

1905年(明治38年)

神戸製鋼所の前身である小林製鋼所を買収しました。

 

1907年(明治40年)

競合を恐れた大日本製糖に650万円で売却しました。結局、金子直吉が門司の大里に精糖工場をたてて、わずか3年で、工場を売却したこととなります。

 

金子直吉は、この売却したときの利益をつかい、神戸製鋼所門司工場や帝国麦酒などの門司の巨大工場群を建設していきました。

 

1927年(昭和2年)

しかし1918年(大正7年)の第一次大戦終結後の不況と、金融恐慌によって鈴木商店は倒産しました参照

 

◇◇◇◇◇

1907年、大日本製糖のものとなった大里精糖所ですが、1996年(平成8年)には大日本製糖が明治製糖と合併し、商号が大日本明治製糖となりました。

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ばら印のロゴがはいった倉庫

*1:北九州の近代化遺産(北九州地域史研究会編)』P.48

*2:楠の木片を水蒸気蒸留で抽出し結晶化させたもので、別名をカンフルといいます。 天然樟脳は、かつては専売品として国益の一翼を担うほどの産業でしたが、安価な合成防虫剤の普及や需要の減少などから、現在生産しているのは数社のみとなっている大変貴重なものです参照

関門トンネル関連施設『試掘坑道竪坑』 福岡県北九州市門司区小森江

北九州市門司区に、JR鹿児島本線の小森江駅があります。この小森江駅の東側に広い有料パーキングがあり、この敷地内に「かまぼこ」状の不思議なコンクリート製の建物が建っています。この建物は関門海峡をまたいだ、本州と九州とを結ぶ関門トンネル関連施設です。

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場所:福岡県北九州市門司区小森江

座標値:33.915667,130.938930

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小森江駅舎

2022年現在では通気口として機能しています。関門海峡は本州と九州を分断する約6000年前にできた比較的、幅の狭い海峡です参照

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かまぼこ状の建物は、もともと関門トンネルを掘る前の、トンネルの試作品だったようです。まず、試掘坑道が掘られ、その後に本坑である関門トンネルが掘られました。

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竪坑の背面

この試掘坑道は、通称、豆トンネルと呼ばれました。豆トンネルは1944年(昭和14年)に貫通しました。同1944年に、本坑道である関門トンネルの起工式が行われました。そして同1944年(昭和19年)に貫通したといいます(参照:『北九州の近代化遺産(北九州地域史研究会編)』P.56)。

 

北九州の近代化遺産(北九州地域史研究会編))』P.56に写真として掲載されているのは、かまぼこ状の竪坑入口です。これとは別に、ドーム型のコンクリート製の建物もあります。こちらが何であるかは紹介されていませんが、おそらくこれも試掘坑道の竪坑ではないかと予想されます。

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ドーム状の竪坑入口

もともと、関門海峡をまたいだ本州と九州との連絡方法として、①トンネル、②架橋、③列車運搬船の3つの方法が提案されていました。
 

②の架橋に関しては、軍事攻撃の目標にされやすいなどの理由で却下されました参照

 

③の列車運搬に関しては、関門海峡を航行する船に影響をおよぼすために却下されました(『北九州の近代化遺産(北九州地域史研究会編)』P.56)。残った①のトンネル案が採用されました。

 

1945年(昭和20年)7月…第二次世界大戦の終結間際…アメリカ軍は関門トンネルの無力化を目的に、トンネルの下関側入口を攻撃予定としていました。しかし天気が悪く攻撃されずにすみました(北九州の近代化遺産(北九州地域史研究会編)』P.57)。

 

有料パーキングに車を停めると、パーキングの敷地内なので、ゆっくりと遺構を見学することができました。竪坑をみたあとは、すぐ近くにある関門製糖工場も観に行きました。製糖工場は立派なレンガ造りの建物で、これはまた別の機会にご紹介したいと思います。

海軍の浅橋跡 大分県宇佐市長洲

大分県宇佐市には戦時中、大日本帝国海軍航空隊の部隊のひとつである宇佐海軍航空隊(うさかいぐんこうくうたい)の基地がつくられていました参照。その海軍の訓練用施設の跡が、宇佐市長洲に残っています。宇佐海軍浅橋です。駅館(やっかん)川という宇佐市を流れる川と、周防灘との境目あたりに、浅橋は設置されています。

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浅橋の向こうにみえるのが小松橋

場所:大分県宇佐市長洲

座標値:33.570736,131.370467

 

艦船にのせられている大型の手漕ぎボートのことを「カッターボート*1」と呼ぶそうですが、カッターボートに乗り降りするためにコンクリート製の浅橋が使われていました。

 

長さ:8.7m

幅:4.9m

高さ:6m以上

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水中部分は御影石となっていて、御影石の上にコンクリート製の柱をつないでいます。柱の上にさらに橋上部のコンクリート板が乗っています。橋上部の横からは、コンクリート製の階段が水面にまで降りています。

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ヒビのはいった橋上部には海鳥のフンがみられる



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浅橋の道路側には堤防ができている 浅橋ふきんからは対岸の団地がみえる

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浅橋前の道路は幅が狭い

現在は風化がすすみ立ち入り禁止となっていますが、戦後すぐのときは、地元の漁師のかたがたによって使用されていたといいます(参照:『九州の戦争遺跡(江浜明徳著)』P.167-168)

 

ここを訪れたのは2021年12月31日です。おそらく正月にむけての行事のために、おおくの漁船には大漁旗がはためいていました。

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*1:船舶間や陸上との連絡、物資の小運搬、遭難者の救助、緊急時の脱出などに用いられ、目立つように白色に塗られているものも多い参照

意匠を凝らした製鉄所専用線トンネル 福岡県北九州市八幡東区枝光

福岡県北九州市の八幡東区から戸畑区にかけて、八幡製鉄所がつくった製鉄所専用の鉄道があります。国土地理院地図では「日本製鉄専用線」と記されていますが、通称「くろがね線」と呼ばれています。

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くろがね線のおおよそのルート

「くろがね線」の一区画に宮田山トンネルがつくられています。この宮田山トンネルの「トンネルポータル」といういわれる部分が、凝ったデザインであるという情報得て、行って見てみることにしました。

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宮田山トンネルの出入口を青丸で示す

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八幡東区枝光の街なかをはしる「くろがね線」

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くろがね線の高架

くろがね線は、1927年(昭和2年)起工され、1930年(昭和5年)に完成しました。開業当初は銑鉄(せんてつ*1)や鉱滓(こうさい*2)、炭滓(たんさい*3)を運んでいました。しかし炭滓を輸送することがほとんどなくなり、1972年からは「くろがね線」と呼ばれるようになりました。くろがね線の工事は八幡製鉄所の社員が行ないました。


宮田山トンネル

枝光(えだみつ)駅から東へ約280mの地点に宮田山トンネルの八幡側出入口があります。

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場所:福岡県北九州市八幡東区枝光3丁目

座標値:33.8789145,130.81627

 

宮田山トンネルの戸畑側出入口は西大谷という地区にあります。

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場所:福岡県北九州市戸畑区西大谷1丁目

座標値:33.8820052,130.8282664

 

国土地理院地図で計測してみると、宮田山トンネルは全長約1170mあります。トンネルがある地区は、トンネルがつくられた当時は草木が生い茂る山だったようですが、現在では住宅街が広がる丘という感じになっています。

 

地点(33.8798945,130.8203145)あたりのピークで標高約98m程度です。

 


宮田山トンネルポータルのデザイン

宮田山トンネルの設計は、河内貯水池をはじめとする、貯水池関連施設の設計を行なった沼田尚徳(ひさのり)氏参照です。そのため、宮田山トンネルのポータルも凝ったデザインとなっています。

 

八幡側トンネルポータル

八幡側出入口はギリシャやローマ(イタリア)の古典を模したルネッサンス風の建物なのだそうです*4

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フェンス越しにみる八幡側のトンネルポータル

八幡側のトンネルポータルは、トンネルのアーチ部分にも、アーチの上部分にも、大きな切石が重ねられつくられているようです。この石は花崗岩(かこうがん)製のもので、家の屋根のような三角形がデザインされています参照

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トンネルを背にして枝光駅方向(西側)をみる

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写真右下にトンネルポータルがある 丘の斜面にトンネルが掘られているのがわかる

 

戸畑側トンネルポータル

戸畑側のトンネルポータルは花こう岩の石積みです。ローマの古い城壁を模したデザインといいます。上方に4本の高い突起物、さらにその両脇にも低い突起物があり独特です参照

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壁部分には波うつような模様がかたちづくられている

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尼堤橋の上からトンネルをみることができる

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トンネルを引きぎみで見ると、なだらかな丘に掘られていることがわかる

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トンネルを背にして線路をみる 住宅街をつっきっている







 

*1:鉄鋼の原料

*2:金属精錬時にでる副産物

*3:石炭の燃え殻のこと

*4:ルネサンス建築(ルネサンスけんちく)は、一義的にイタリアのフィレンツェで1420年代に始まり、17世紀初頭まで続いた建築様式を指す参照

共同漁業ビル(日本水産北九州事業所) 福岡県北九州市戸畑区銀座

今回の記事は、『北九州の近代化遺産(北九州地域史研究会編)』P.160-161を、主に参照させていただきました。北九州市の戸畑区にある日本水産の事務所棟を訪ねました。2021年時点では、85年の歴史をもつ建物です。この建物にどのような歴史があるのか調べてみました。

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昭和初期に建てられた年季が入った建物

場所:福岡県北九州市戸畑区銀座2-6-27

座標値:33.900176,130.817209


人工島「一文字島」

洞海湾口には昔、中之島をはじめ、いくつかの島々がありましたが、現在は船の運行に支障をきたすために浚渫(しゅんせつ)されてしまいました。


その結果、洞海湾の底からでた浚渫土(しゅんせつど)によって人工島がつくられました。人工島の名前は一文字島(いちもんじとう)といいます。

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大正11年の地図

この島は1926年(昭和元年)に戸畑側と陸続きになりました。そして事業用地として売り出されることとなりました。

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昭和11年の地図

参照:今昔マップ


共同漁業株式会社(日本水産)の進出

陸続きになった一文字島に、起業家 鮎川義介(あいかわよしすけ参照)が共同漁業株式会社を展開してきました。共同漁業株式会社は、のちに日本水産株式会社となります。

 

1929年(昭和4年)には、共同漁業株式会社は、ここ一文字島近辺で、市場(いちば)・加工場・従業員宿舎などをあわせたトロール事業の基地をつくりあげたそうです。


そして、基地をつくりあげたあとも、共同漁業は大型船尾式トロール船*1による遠洋新漁場の開拓に熱心にとりくみました参照


西日本ではじめて本格的に魚肉ソーセージがつくられた工場

戦後の食糧難と栄養不足から、戸畑では1953年(昭和27年)から魚肉ソーセージが作られはじめました。さらに、共同漁業の工場では、ちくわの生産が行われはじめました。しかし、ちくわの製造をはじめた頃、製造技術を教えられる社員がひとりもおらず、ゼロからの出発となったそうです。


現在も残る日本水産株式会社の事務所棟

現在、共同漁業株式会社の巨大な基地の雰囲気はほとんど残っていません。しかし、下の写真のような、日本水産の事務所棟がのこされています。

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事務所棟のすぐ近くには若戸大橋が架かる

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この事務所棟は、1936年(昭和11年)につくられた鉄筋コンクリート製の建物です。戸畑漁港のなかでは、とても存在感のある建物です。この事務所棟がある場所は、一文字島が戸畑とまだ陸続きではなかった頃、岬の突端部分にあたる場所でした。

*1:底引網漁業の一種参照

河内貯水池 関連の史跡

製鉄所での鉄鋼の生産には大量の水が必要といわれます。北九州市八幡製鉄所の操業が開始された当時、鋼鉄1トンの生産には200トン以上の水が必要といわれていました。そのため八幡製鉄所では創業当時から鉄鋼生産に必要な水の確保へ注力し、製鉄所構内だけにとどまらず、製鉄所ちかくの大谷地区や大蔵地区にも貯水池がつくられました。

 

八幡製鉄所は、さらに遠賀川にまで水を求めました。遠賀川から水を引くためにポンプ場設備もつくられました。

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世界遺産に登録された遠賀川ポンプ場

場所:福岡県中間市土手ノ内

座標値:33.811098,130.706813


これら数多くの水源地のひとつに、河内(かわち)貯水池があります。八幡製鉄所の第三次拡張計画にもとづき建設されたのが河内貯水池です。河内貯水池は八幡製鉄所第三次拡張工事の一環として、1919年(大正8年)5月に着工され、1927年(昭和2年)3月に完成したアースダムです。アースダムというのは、主に土をつかって、台形状に形成して建設するダムのことです参照。。

 

当時のお金で430万円がかかったといわれています。現在の価値に換算すると、約22.8億円(4300000円×530.709876543≒22.8億円;参照)もの巨額です。また、のべ90万人の人員を動員しました。


河内貯水池の堰堤をはじめ、貯水池の付属施設群にも、経済性と耐久性の観点から現地である北河内(かわち)産の石が多用されています。まわりの自然と、貯水池の建造物が調和できるように、石の積み方にも工夫がされており、切石積(きりいしづみ)、野面積(のづらづみ)・割石張(わりいしばり)、自然石張(しぜんせきばり)などの方法が駆使されています。

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貯水池堰堤

場所:福岡県北九州市八幡東区大字大蔵

座標値:33.837981,130.810598

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貯水池堰堤

これら河内貯水池堰堤と周辺施設群の設計者は、沼田尚徳(ひさのり)氏です。沼田氏は京都帝国大学第1期卒業者で、1900年(明治33年)に八幡製鉄所に就職し、のちに設計建設の責任者にまでなりました。

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監視塔、兼管理事務所

 

こちらの、全面が自然石で覆われた監視塔、兼管理事務所には沼田氏による「遠想」の書が掲げられています。

 

場所:福岡県北九州市八幡東区大蔵

座標値:33.838882,130.809800

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河内貯水池堰堤の北側にある監視塔

貯水池と関連施設とともに水路もつくられました。河内水路は貯水池の水を、鬼ケ原浄水場(2021年現在はなくなっている)を経由して、八幡製鉄所に送るために造られました。鬼ケ原浄水場は、どこにあったのか具体的な場所を示す情報がみあたらなかったのですが、国土地理院地図で浄水場の目印である大きなふたつの水槽をみつけました。

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中央部に鬼ケ原浄水場らしきものがみえる
国土地理院(航空写真)1974-1978年撮影

場所:福岡県北九州市八幡東区天神町5

座標値:33.861611,130.803499

 

2021年時点では鬼ケ原浄水場はなくなっていますが、水路の途中には桁橋やアーチ橋などが架かっています。


また、貯水池には「河内五橋」と呼ばれる橋梁群がつくられました。もっとも名がしられていて、国指定重要文化財でもある南河内橋(レンティキュラートラス橋という型)はとてもめずらしい形をしています。

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南河内橋

場所:福岡県北九州市八幡東区大字大蔵

座標値:33.827321,130.801074

 

私はこの形の橋をここでしかみたことがありません。そのほかにも河内貯水池には中河内橋(三連アーチの眼鏡橋)、北河内橋(大正11年に完成したアーチ橋)なども現存しています。

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北河内橋

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平成元年に新しくされた北河内橋

場所:福岡県北九州市八幡東区河内

座標値:33.838213,130.807294

 


参照した史料
北九州歴史散歩 筑前編(北九州市の文化財を守る会編)』P.66-67
北九州の近代化遺産(北九州地域史研究会編)』 P.116-118

 

河内貯水池ふきんにある弁室 福岡県北九州市八幡東区大蔵

河内貯水池の周辺を散策していると、不思議な建物をみつけることができました。弁室(べんしつ)とよばれるものと考えられます。弁室という建物がどのような機能をもっていたのかは、わたしは詳しくないのでわかりません。憶測ですが、河内貯水池から落ちてくる水から、必要なだけ取水するための調整機構がおさめられているのではないかと考えます。

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【弁室】 河内貯水池 堰堤(えんてい)の下にある

場所:福岡県北九州市八幡東区大蔵

座標値:33.839701,130.811295

 

この建物は、亜字池という人工池のそばに建てられています。河内貯水池から降りてきた水に空気を含ませるために、亜字池には巨大な噴水があったといいます(参照:『北九州の近代化遺産』P.120)。貯水池との水圧をつかって水がふきあがっていたそうですが、1955年(昭和30年)頃から、貯水池の水の使用量が減少してきて、噴水は中止されました。

 

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今はもう水が噴きあがらなくなった亜字池

1956年(大正15年)におこなわれた起業祭では3万5千人の観覧者がここに訪れたといいます。

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趣向が凝らされたデザイン

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一枚一枚 割り石を積み重ねてつくりあげられている