日々の”楽しい”をみつけるブログ

福岡県在住。九州北部を中心に史跡を巡っています。巡った場所は、各記事に座標値として載せています。座標値をGoogle MapやWEB版地理院地図の検索窓にコピペして検索すると、ピンポイントで場所が表示されます。参考にされてください。

ショケラらしきものを持つ青面金剛が刻まれた庚申塔 大分県国東市国見町鬼籠

大分県 国東(くにさき)半島の北部に位置する”国東市国見町”の鬼籠(きこ)という地区に庚申塔をさがしにいってみました。

 

場所:大分県国東市国見町鬼籠

座標値:33.6571252,131.5708385

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こちらの庚申塔は、電子書籍『国東半島の庚申塔 (小林幸弘著)』【Kindle位置番号246の131】や、『国東半島の石造美術 (酒井冨蔵著)』P.184に紹介されています。

 

この庚申塔は鬼籠川に沿ってつくられた細長い集落のまんなかあたりの三叉路にまつられていました。

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小林幸弘氏が運営するホームページ『国東半島の庚申塔-25035-』の写真では、庚申塔の周囲は草木はあまり繁茂しておらず、すっきりとしています。同様に、『国東半島の石造美術 (酒井冨蔵著)』P.184の写真でも、庚申塔の周囲はすっきりとしています。

2020年11月22日時点では↓下の写真のように低木と雑草が繁茂し、しげみのなかに庚申塔や石祠がうもれているようなかたちとなっていました。

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主尊である青面金剛像は一面六臂(いちめんろっぴ)で、髪型はまるでおかっぱのようになっています。青面金剛の6本の腕のうち、2本の腕はからだの前でおりまげられています。

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からだの前でおりまげられた2本の腕のうち、左手にはショケラらしきものが把持されています。

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青面金剛の両脇には二童子がひかえます。青面金剛の足の下側には、とてもみにくくなっていますが、三猿がきざまれていることがわかります。真ん中の猿は正面をむいており、その両側の猿は真ん中の猿の方角をむいています。

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三猿の下に二鶏(にとり)が刻まれています。二鶏の下には、頭にツノがはえた四夜叉が手に棒をもってひかえています。

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1972年(昭和47年)に書かれた『国東半島の石造美術 (酒井冨蔵著)』P.184の写真を拝見すると、2020年時点で撮った写真の庚申塔よりも、像容がよりはっきりとしているようにみえます。50年ちかい時間がたってそれだけ庚申塔の風化がすすんだのかもしれません。

庚申塔の左右側面を確認しましたが、建立年月などの銘はみられませんでした。

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福岡県”若松市”の中学校について 福岡県北九州市若松区

2020年現在、福岡県北九州市には7つの区があります。門司区、若松区、戸畑区、小倉北区、小倉南区、八幡東区、八幡西区です。これら7つの区は、1963年(昭和38年)まで存在していた門司市、小倉市、若松市、八幡市、戸畑市という5つの市が合併したことにより誕生しました。

 

今回の投稿では、1963年まで存在していた若松市の中学校について、知ったことを記録してみようと思います。

 

どうしてそう思ったかというと、若松市の中学校の教師をされていたかたに、若松市時代の中学校の場所と、ちょっとしたエピソードをお聞きしたからです。お聞きした内容を、ひとまずそのまま以下に記載してゆきます。

 

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若松市には第1中学校から第6中学校まであった

 

第1中は刑務所の跡地である”キタミナト”にあった。”キタミナト”には古くなった軍艦が埋められていて、それが防波堤の役割をしている。第1中は若松市のなかでも、いちばんはずれの場所にあったので、天気の悪い日は地面が悪くなりひどかった。

 

第2中は高塔山の”ヤマノド”にあった。

 

第3中は現在の高塔中学校の上にあった。男子中学校のとなりに女子中学校があって、学期は2年間だった。高塔山の上のほうに第3中があり、そのすぐ下側に第2中があった。第2中から第3中が見えていた。だから第2中の先生は仕事が夜遅くなっても「第3中の灯がまだともっているので、自分たちもがんばろう」…と仕事に励んでいた。

 

第4中は現在の石峯中学校で、藤ノ木という地名のところにある。

 

第5中は現在の洞北中学校で、島郷という地名のところにある。とてものどかな場所にあって、中学校に通う生徒の数も少なく、お互いにみんな家族とも顔見知りなので、6中のなかでもいちばんおだやかな学校だった。

 

第6中は第2中の分校で、”小石”という地名の場所にあった。火葬場のちかくのお稲荷さんの奥に第6中はつくられた。火葬場が稼働しているときは、風にのってにおいが学校まで運ばれてきていたため、その場合は窓をしめきって授業をうけないといけなかった。いまでは火葬場は墓地になっている。第6中のグランドは、第6中ができたときにはなかったので、生徒みんなで地面をならしてグランドをつくった。グランドで野球をやると、飛んだボールが海によく落ちた。落ちたボールを回収するため、ボートを漕いで海にいかないといけなかった。現在はそのグランドはバスの発着場になっている。

 

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以上の、お聞きした内容をもとに、それぞれの中学校がどこにあったのか、あるのか推測してみたいと思います。

 

第1中の場所

防波堤代わりの軍艦が埋められている場所は、軍艦防波堤(Google map)として現在も残されていて、わかりやすいです。そして”キタミナト”とは北湊のことで、現在も地名がのこっていました。↓下図の赤でかこんだ箇所です。

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北湊の北側は大部分が埋め立てられています。むかしの海岸線であったと考えられる部分を青破線で示しました。作図してみるとたしかに海のまぎわに北湊があったことがわかります。

 

現在の北湊は工場地帯となっており、地図をながめるとその大半が埋立地のようです。ここからはまったくの憶測ですが、北湊地区のなかに「波打」という地区があり、ここに波打公園があります。地名から察すると昔の海岸線は波打地区であり、浪打公園付近に第1中があったのではないかと憶測してみました。

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第1中推定場所:33.911347,130.802153

 

第2中の場所

第2中の情報はシンプルです。”高塔山の”ヤマノド”にあった”ということです。山ノ堂町という地名が現在も残っています(Google map)。この地区は住宅地が密集していますが、この地区から少し北東へはずれた場所に「若松中学校」があります。ここが第2中だったのではないかと想像します。

 

第2中推定場所:33.907163,130.801843

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第3中の場所

 

高塔山の上のほうに第3中があり、そのすぐ下側に第2中があった。第2中から第3中が見えていた。だから第2中の先生は仕事が夜遅くなっても「第3中の灯がまだともっているので、自分たちもがんばろう」…と仕事に励んでいた。

というエピソードから第2中から高塔山方向へのぼっている高い場所に第3中があったことが想像できます。また、第2中から見て第3中は山のかげなどにはなっていないこともわかります。これらのことを考えあわせ、Google mapの3D機能をつかって第2中から高塔山方面をながめてみました。

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上図の赤で囲んだ場所が、以上の条件にあった第3中の推定場所と考えました。平面の地形図で赤丸の部分を確認してみます。

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上図の比較的たいらな場所が座標値(33.905987,130.799897)地点です。白山神社の西側にあたります。この場所を衛星写真でみてみます↓

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第3中推定場所には、現在、駆逐艦 冬月 凉月 柳 戦没者慰霊碑があり公園になっているようです。またこの公園のすぐ北側は音楽専門店があり、この場所も比較的たいらとなっているようです。学校をたてるとしたら、山の斜面にたてるというのは考えにくいので、たいらの場所が多いこの場所ふきんを第3中の推定場所としてみました。

 

第3中推定場所:33.906080,130.799787

 

第4中と第5中の場所

 

第4中と第5中は現在ものこっているのでわかりやすいです。第4中は現在の石峯中学校(福岡県北九州市若松区今光一丁目12−12番8号:Google map)で、第5中は現在の洞北中学校(福岡県北九州市若松区竹並3087−1:Google map)です。

 

第6中の場所

 

第6中があった場所の情報をまとめると以下のようになります。

 

・第6中は第2中の分校で、”小石”という地名の場所にあった

・火葬場のちかくのお稲荷さんの奥に第6中はつくられた。

・いまでは火葬場は墓地になっている

・第6中のグランドはバスの発着場になっている

 

情報として有力なのは第6中のグランドは現在バスの発着場になっている…という箇所です。地図上にそれらしきものが確認できます。地点(33.919134,130.797480)で、北九州市交通局・市営バス 運輸課若松営業所となっています。

 

このバス営業所が学校のグランドだったということは、そのすぐちかくに中学校の校舎があったはずです。バス営業所のすぐ南側に中学校跡地らしき広場がのこっています。

 

↓なにも加工していない衛星写真と、海岸線や第6中の推定場所を図式化した衛星写真をならべてみます。

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エピソードのなかに…グランドで野球をやると、飛んだボールが海によく落ちた。落ちたボールを回収するため、ボートを漕いで海にいかないといけなかった…というのがありました。

 

地図の海岸線(推定)とグランドの位置関係をみると、グランドのすぐ北側が海であったことがわかります。エピソードと地図の情報が合致するので、第6中の推定場所は有力ではないかと考えられます。

 

ただ、第6中ふきんにあった火葬場(のちの墓地)やお稲荷さんは、現在の地図で確認してもみあたりませんでした。

 

第6中推定場所:33.918213,130.797021

 

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北九州市若松区が、”若松市”の時代であったとき6つの中学校があり、現在も現役として使用されている中学校はそのうちの3校であることがわかりました。

 

廃校となった跡地は、憶測ですが、公園となっている可能性がたかいと考えました。これらの憶測の裏付けとなる情報がないか、史料をしらべてみたいと思います。

14系寝台客車 福岡県北九州市門司区西海岸

わたしの記憶のなかで、わたしが実際に寝台列車をみたのはこれがはじめてです。もちろん寝台列車にのったこともありません。でも小さいころ、たしか『ブルートレインさくらごう』(砂田 弘著)を読んで「寝台列車にのって列車のなかで夜をすごしてみたいな…」というあこがれをもっていた記憶があります。

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この列車は「14系寝台客車」とよばれます。案内板によると正式の名称は「スハネフ系11」というそうです。北九州市門司区にある鉄道記念館に保存されています。

 

場所:福岡県北九州市門司区西海岸

座標値:33.943241,130.961386

 

「スハネフ」というのはききなれない名前です。それもそのはず。列車特有の記号の組み合わせのようです参照

 

「ス」=重量を表す記号でスチールの”ス” (37.5~42.5トン)

「ハネ」=B寝台車

「フ」=ブレーキの”フ”で車掌室または手ブレーキ・車掌弁がある客車

 

…ということをあらわしています。

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客車内は見学ができませんでした。この寝台の2F部分にはどうやってのぼったのだろう?と、妻とはなしました。

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 こちらのブログ(14系寝台客車 スハネフ14系11 九州鉄道記念館 - 観光列車から! 日々利用の乗り物まで)で、車内の詳細な写真が掲載されています。この写真を拝見しても、どこに足をかけて2F部分にのぼっていたのかわかりません。

 

向こう側の窓てまえに取っ手がついた支柱があります。この支柱は、下の座席の座面高さまで伸びています。この支柱につかまり、足を下の座席→窓枠にかけて2Fの寝台へと登るのではないかと考えました。

 

2Fにのぼるためのハシゴかなにかが設置されているものだと考えていましたが、もし想像があたっていたとしたら、なかなかのワイルドさが求められると感じました。

西鉄北九州線跡をたどる その② 最終回 福岡県北九州市八幡西区南鷹見町

西鉄北九州線は2000年(平成12年)までにぜんぶ廃止されました。その線路跡がいまどうなっているのか、たどってみました。昨日に投稿した記事(西鉄北九州線跡をたどる その①『折尾停留所跡』)のつづきです。

 

約20年経過した「西鉄北九州線-北九州本線-跡」は、工事車両専用道路としてのこされていて、現在も住宅街のそばをはしっています。

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場所:福岡県北九州市八幡西区北鷹見町

座標値:33.862636,130.715198

 

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場所:福岡県北九州市八幡西区長崎町

座標値:33.863275,130.722732

 

Google mapの衛星写真をみると軌道跡がよく確認できます。

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(33.863562,130.723570)地点の高架から「西鉄北九州線-北九州本線-跡」を見下ろしたものです↓ JR鹿児島本線と並走していることがわかります。

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上の写真を撮った位置から反対方向の東側をみると、金山川をながめることができます。その金山川に架かる北九州本線の鉄橋です↓

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福岡県北九州市八幡西区陣原三丁目(33.865727,130.738546)地点で撮影↓ 県道11号線が高架となり、その下を西鉄北九州線-北九州本線-がとおっていました。

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福岡県北九州市八幡西区陣原三丁目(33.865787,130.739353)地点で撮影↓ 線路跡に新しい住宅がズラッと建てられています。

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衛星写真でみると、はっきりと線路跡に住宅がならんでいます。

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福岡県北九州市八幡西区陣原一丁目(33.866784,130.750706)地点で撮影↓ 割子川を西鉄北九州線がわたる場所です。こんなふうに橋がかかっていたのではないかという想像図です。

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割子川の西側に、橋が架かっていたとおもわれるレンガ造りの土台がのこっています。レンガの土台以外は橋の痕跡はのこっていませんでした。

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この地点から黒崎方面(東方面)にすすむと、JR鹿児島本線や筑豊電鉄と線路が合流し複雑となっていたために、わたしは西鉄北九州線の痕跡をたどるのがむずかしかったです。そのため、探索はここまでとしました。

 

わたしが、まだ高校生のころまでは、ときどきこの西鉄北九州線-北九州本線-を利用していました。今回たどった廃線跡区間を電車にのって外の景色をながめていました。懐かしい思いとともに、線路の痕跡をみつけてゆくのは、パズルを解いていくようで、やっぱり楽しいものでした。

西鉄北九州線跡をたどる その①『折尾停留所跡』 福岡県北九州市八幡西区南鷹見町

西鉄北九州線は2000年(平成12年)までにぜんぶ廃止されました。その線路跡がいまどうなっているのか、たどってみました。

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上図の点線は西鉄北九州線の一部、北九州本線です。北九州本線は、北九州市八幡西区の「折尾駅-黒崎駅」間をはしっていました。

 

西鉄北九州線(北九州本線)の折尾停留所跡です。停留所は高架橋駅となっていて、駅の橋げたはレンガ製三連アーチです。折尾駅の南東約100m地点にあります。

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場所:福岡県北九州市八幡西区南鷹見町

座標値:33.863042,130.713456

 

三連アーチのうち一番東側のアーチは生活道路とななめに交差します。そのためアーチをななめにつくる「ねじりまんぽ」と呼ばれる特殊な造りをしています。

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「ねじりまんぽ」は全国で29か所しか確認されておらず、この折尾のものは、そのなかでも最大といわれます参照

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三連アーチのうち一番西側とまんなかのアーチは資材置き場です。その資材置き場の南側が市営の駐輪場になっています。

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これら二つのアーチは、生活道路が通る一番東側のアーチとは造りがちがい、やや武骨です。よく人の目にふれる箇所は美しくしようとする、つくった方々のこだわりが感じられます。

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大正時代の姿をそのまま残す駅-採銅所駅舎- 福岡県田川郡香春町採銅所

福岡県田川郡香春(かわら)町には香春岳(かわらだけ)と呼ばれる石灰岩でできた山があります。外見がとてもきみょうな山で、採石により山の頭の部分がまったいらになっています。

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香春岳は一ノ岳、二ノ岳、三ノ岳にわかれており、上の写真のように山頂がまったいらになっているのは一ノ岳です参照

 

そして香春岳の三ノ岳からは、むかし銅がとられていたようで、その歴史は古く奈良時代にまでさかのぼります。

 

平安時代には、大分県宇佐市にある宇佐神宮へ奉納するための銅鏡が、ここ香春の清祀殿(せいしでん)でつくられていたといわれます。清祀殿に運ばれてきていた銅は三ノ岳の神間歩(かみまぶ)という採掘所で採られていました。

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日々の楽しいを見つけるブログ-宇佐神宮へ奉納する鏡をつくっていた史跡-

 

そんな香春岳の玄関口がJR日田彦山線の駅「採銅所」です。「採銅所」駅は日田彦山線が開通した当時の、小倉鉄道の時代から、そのままの姿をのこしています。採銅所駅のことを知ったのは『筑豊の近代化遺産(筑豊近代遺産研究会編)』P.55を読んでです。ここでは大正四年の開業時の姿を今に伝える貴重な建築物だ…と紹介されています。 

 

場所:福岡県田川郡香春町採銅所

座標値:33.707161,130.853332

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採銅所駅舎の石碑にきざまれている説明文を、以下、そのまま抜粋してみます。

 

香春町指定有形文化財

 

駅舎は、大正4年3月(1915)に建築された小倉鉄道開通時の中で現存する唯一の建物です。駅舎の構造から見ても当時の一級品で近代化遺産としても非常に価値が高いと言えます。

 

規模は、正面15.58m、側面7.2mで棟高4.9mを図る寄棟造の近代洋風木造駅舎です。

 

外側壁面の飾りや、待合室天井の星型文様など大正モダンを感じさせます。

 

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わたしは建築様式のことはまったくわかりません。でもベンチや柱、天井、窓枠など、ひとつひとつのパーツをみていくと、たしかに素人目でも、凝った造りをしているな…ということが感じられます。

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大正時代につくられたといわれますが、外見はとても新しいので、手直しがされたのでしょう。いつごろ手直しがされたのか調べてみると、2011年だそうです参照

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老朽化した駅舎は、2010年にJR九州から香春町へ無料でゆずられ、1000万円をかけて3カ月で改修されました。

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Wikipedia-採銅所駅-では、改修前の駅舎の写真が掲載されています。その写真と現在の写真をみくらべてみても、たしかに、原型そのままです。改修後には、駅舎のとなりに”第二待合室”がつくられ、香春町の移住・交流拠点として使用されているようです。2020年11月14日におとずれたときにも、スタッフのかたが”第二待合室”におられました。

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下の写真では”第二待合室”は駅舎の右側にあります。わたしが訪れたとき、複数のかたが出入りしていました。小さな駅なのですが、”閑散としている駅”という雰囲気ではありませんでした。

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駅舎の南側…約50mの地点に無料の駐車場があります。

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