日々の”楽しい”をみつけるブログ

福岡県在住。九州北部を中心に史跡を巡っています。巡った場所は、各記事に座標値として載せています。座標値をGoogle MapやWEB版地理院地図の検索窓にコピペして検索すると、ピンポイントで場所が表示されます。参考にされてください。

住宅のあいだに挟まれている庚申塔 福岡県北九州市門司区西新町

北九州市門司区 西新町の住宅街に猿田彦大神の文字庚申塔がまつられていました。

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場所:福岡県北九州市門司区西新町

座標値:33.891552,130.920206

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猿田彦大神という文字の右側に文化四卯年、左側に正月吉日ときざまれています。文化四年は西暦1807年、干支は丁卯(ひのとう)です。

 

北九州市街地では住宅が密集してたてられていることが多いため、車を路駐することがなかなか難しいです。このような庚申塔をたずねる際は、有料のパーキングにとめて、徒歩でいくのが、周囲に気をつかわなくて良いように感じます。

 

ついでに町なかを歩き、他にめずらしい史跡はないか、食べ物屋さんはないか、きれいな景色がないかなど、歩くのをたのしむようにしています。

坂の街 北九州市八幡東区の風景 福岡県北九州市八幡東区東台良町

大正寺(福岡県北九州市八幡東区帆柱)へ訪問した際にであった坂道の風景です。皿倉山の斜面に建てられた住宅のあいだを縫うようにして階段と小路がつくられています。生活上不便なことがおおいためか、このような斜面に建てられ、小路と階段を歩いてしか出入りができない住宅の一部は空き家となっているようでした。

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もともと小倉北区にあった大正寺の六地蔵 福岡県北九州市八幡東区帆柱

『北九州市史(民俗)』P.579に”大正寺の六地蔵”という項があります。これによると、八幡東区の東台良(ひがしだいら)という地区に大正寺があり、ここに現在5基残存している”六地蔵”がまつられているといいます。

 

もともと小倉藩主である小笠原忠真(ただざね)が、小倉北区の馬借町に六地蔵をまつったことにはじまるそうです。小倉北区にあった六地蔵が、どうして現在は八幡東区にあるのでしょうか?その経緯は以下のようになります。

 

・小倉北区で、忠真氏が六地蔵をまつって地蔵軒をつくった

・その地蔵軒が、のちに円照院と名前をかえた

・明治維新のあと、円照院は小倉北区古船場町にあった大隆寺と合併した

・円照院と合併した大隆寺は、大正5年(1916年)に現在の地に移転された

 

その忠真氏がまつったといわれる六地蔵を、大正寺にたずねてみました。結論からいうと、境内の墓地近辺に石仏がたくさんあり、どの石仏が忠真氏がまつったという六地蔵であるのかがわかりませんでした。

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上の写真のような石仏がまつられている場所は以下の地点です。

 

場所:福岡県北九州市八幡東区帆柱

座標値:33.858556,130.794639

 

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これら石仏のなかにはとても古い印象のものがあります。それら石仏の銘をみてみると、宝暦七年(1757年)とか、明和八年(1771年)などが確認できます。古そうな石仏でも1700年代につくられたものです。

 

小笠原忠真氏が生きた期間は1596年~1667年です参照。忠真氏が生きている期間に六地蔵はつくられたわけなので、1700年代につくられた比較的あたらしい石仏は、忠真氏がまつったものではないことがわかります。

 

けっきょく、どこに六地蔵(現在は五地蔵)がどこにあるのかは不明でした。

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大正寺の山門

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大正寺境内

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墓地へつづく参道

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大正寺から臨む北九州市街と石峰山

大正寺境内には車が10台ほどとめられる駐車場がありました。しかし私たち家族はそのことを知らなかったため、付近のパーキングに車を停め、歩いて大正寺までむかうこととなりました。

 

パーキングから大正寺までは、急な坂道と階段をのぼっていきました。大正寺自体が皿倉山のふもとに位置しており標高が102mの場所にあります。

 

北九州市は洞海湾のすぐそばまで、石峰山や皿倉山がせまっており、その狭い土地のなかにおおくの人がすんでいるので、坂にたくさんの住居をたてる必要がありました。

 

大正寺周辺の住宅街も、急な斜面に住居をかまえている場所が多くみられました。その風景は、広島県の尾道市の風景ににています。

 

別の機会に、大正寺に行くまでにであった北九州市の坂がある風景をご紹介したいとおもいます。

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大正寺山門ふきんの景色

菅原道真公ゆかりの地 -菅公御手洗の池- 福岡県北九州市戸畑区菅原

菅原道真公が、北九州市戸畑区の天籟てんらい寺に宿をとられたとき、手をあらったとされる池があります。菅原神社を訪ねたさいに、たまたまみつけることができました。

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場所:福岡県北九州市戸畑区菅原

座標値:33.885420,130.829116

 

菅原公園のすぐ東側…住宅のあいだをとおって20mほど菅原2号線からはいった場所にちいさな池がありました。

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この水をつかって字をかくと上手になるといわれます(参照:案内板)。またこの池に住む蛭ひるに菅原道真公が術をかけたために、ここの蛭は血を吸わないといわれています参照

歯痛をとめてくれる稲荷様 -明石(めいせき)稲荷- 福岡県北九州市戸畑区菅原

『北九州市史(民俗)』P.566から「稲荷信仰」という項がはじまり、その項のなかに明石(めいせき)稲荷が紹介されていました。明石稲荷は北九州市戸畑区の菅原神社境内に合祀されています。この稲荷様は、もともと菅原神社境内ではなく、菅原神社から南東500mほどの地点にある尼堤という地区にあったそうです。 

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(明石めいせき稲荷は)もとは尼堤(現観音寺町の一角)の田の畔あぜにまつってあったもので、歯のうずきを止めるご利益があると信仰されていた。

 明石稲荷は下の写真のように二基の木製祠にまつられていました↓

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場所:福岡県北九州市戸畑区菅原

座標値:33.885692,130.828089

 

↓こちらが菅原神社です。菅原2号線という名前の道路沿いにあり、鳥居のすぐまえに西鉄バスの停留所「菅原神社前」があります。

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菅原神社本殿の右奥に二基の木製祠がまつられています↓ この木製祠のなかにたくさんの稲荷像がまつられているため、これが明石稲荷のようです。

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北九州市史(民俗)P.567には、稲荷信仰についてさらにのべられています。その内容をかいつまんでご紹介します。

 

この明石稲荷がまつられていた周辺(天籟寺てんらいじ)には、もともとキツネがおおい場所であったらしく、まわりの丘陵地の谷口には狐穴がおおくみられました。明治時代は、農業をやっていたひとが畑から牛とともに家に帰るとき、あとから狐がついてくることがめずらしくなかったといいます。

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そんな身近な狐であったため、餌をあたえてまわる宗教行事がありました。「ノーセンギョウ(野施行)」といったそうです。

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 ノーセンギョウでは、あずき飯に油あげを添えて狐穴の入り口においてまわりました。

 

大正時代から昭和のはじめにかけては「おセキさん」という野狐使いがおり、「おセキさん」を中心にノーセンギョウをして歩きました。

 

現在の戸畑区菅原の周辺は住宅街となっており、車通りも多く、野狐がいたという名残はありません。

住宅地にのこる旧陸軍の史跡-「工兵第十二大隊」遺構- 福岡県北九州市小倉南区南若園町

住宅街にぽつんと残される旧陸軍の「工兵第十二大隊」遺構。明治末から大正期につくられた演習施設と推察されていますが詳細は不明です。

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場所:福岡県北九州市小倉南区南若園町

座標値:33.842699,130.886863

 

北九州歴史散歩 豊前編(北九州市の文化財を守る会編)』P121によると、以下のような紹介がなされています。

 

・この隧道は鉱滓(こうさい)煉瓦積みである

・隧道上部に「工兵第十二大隊」と刻印されている

・北方(地名:きたかた)兵営に駐屯していた大隊の演習施設と予想される

・部隊歴史と隧道の形状から明治末~大正期の建築と予想される

 

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 この隧道をかたちづくる鉱滓煉瓦(こうさいれんが)というのはなんなのか調べてみると、製鉄のときにでる鉄の副産物が滓(かす)、またはスラグと呼ばれるようです参照。そのスラグを原料とした煉瓦で、この隧道はつくられたのですね。

 

地図をみてみると、この隧道はどこかにつながっているもの、というよりも、何かを保管していたトンネルのようなもののようです。

小倉にある1343年につくられた板碑 -自然石梵字板碑- 福岡県北九州市小倉南区西水町

北九州市小倉南区の西水町という地区に貴布祢神社がまつられています。この神社に680年ちかく前につくられた梵字板碑がまつられているといいます。

 

境内にはいって拝殿を前にします。拝殿右奥のほうにプラスチックトタン屋根が設置されているのがみえます。その屋根のしたに二基の石塔がまつられています。

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どちらの石塔もわたしの背丈をこす、おおきなものです。これらのうち、文字が刻まれているのが左側の石塔です。

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場所:福岡県北九州市小倉南区西水町

座標値:33.851683,130.892345

 

左側の石塔が「自然石梵字板碑」と思われます。そうすると、案内板によると、この石塔は高さが182㎝あることになります。

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板碑の上部に阿弥陀如来をあらわす梵字「キリーク」がきざまれています↓

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そして板碑の左下側に「康永第二天暦癸未三月十三日」の文字が刻まれます。康永二年は1343年で干支は癸未(みずのとひつじ)です参照

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その他、この梵字板碑について、案内板に書かれている情報を箇条書きでご紹介すると以下のようになります。

 

・梵字、年号以外に文字が刻まれていない

・そのため造られた目的は不明

・北九州市内で年紀を刻んでいる板碑はこれが最古のもの

・もともと水町橋付近にたてられていた

・鉄道敷設その他諸事情で大正14年に貴布祢神社に移設された

 

 

この梵字板碑は別名「升塚」と呼ばれています。升塚の名前の由来についても、案内板に書かれています。以下、箇条書きでご紹介します。

 

・この地方では昔さだめられた升がなかった

・ある村人が升をきめてもらおうと鎌倉にあがった

・3年間幕府にうったえた

・しかし目的をはたさないまま村人は死んだ

・将軍はこのことを不憫におもった

・さっそく升を決めさせた

・喜んだ村人たちはお祝いをし石碑をたてた

 

 

この石碑をたてたという伝説と、この板碑がつながったようで、梵字板碑が升塚という名で呼ばれるようになったそうです。

 

 

↓二基の石塔のうち、右側の石塔にはなにも文字は刻まれておらず、詳細は不明です。

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