日々の”楽しい”をみつけるブログ

福岡県在住。九州北部を中心に史跡を巡っています。巡った場所は、各記事に座標値として載せています。座標値をGoogle MapやWEB版地理院地図の検索窓にコピペして検索すると、ピンポイントで場所が表示されます。参考にされてください。

犬鳴ダムのさらに山奥につくられた史跡 福岡県宮若市犬鳴

福岡県宮若市にある犬鳴ダムへ、以前、庚申塔を探しにいきました。その際、「犬鳴御別館跡」とかかれた案内板がダム湖ちかくにたてられていたので、どんな史跡なのかずっと気になっていました。

 

地図上では、ダム湖を1周ぐるっとはしっている道路の一番北側(座標値:33.702245,130.556072)から、さらに北へ直線距離で約480mの地点に「犬鳴御別館跡」は示されています。

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犬鳴御別館跡までは舗装された道路がつづいているため車でいくことができます。しかし、別館跡近くは「不法投棄防止」のために車両での入場が鉄門により禁止されているため、鉄門から別館跡までの約200mほどは歩いていく必要があります。この犬鳴御別館というのはどんな建物だったのでしょう?

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車両進入禁止の鉄門 犬鳴御別館跡

車両進入禁止の鉄門

「犬鳴御別館」は福岡の大名様をかくまうための城だった

犬鳴御別館跡にたどりつくと立派な石垣がでむかえてくれます。

犬鳴御別館跡の表門跡

場所:福岡県宮若市犬鳴

座標値:33.706496,130.555160

 

ここは表門の石垣です。パッと見た目はまるでお城の石垣のようです。それはそのはず、犬鳴御別館跡は大名をかくまうための、いわば要塞のようなものだったようです。江戸時代終わりごろ、外国との戦争が起きた際、福岡藩主をかくまうために造られた館といわれます。

 

犬鳴御別館跡は犬鳴谷という山深く人目につかない場所にあり、これが自然の要塞となっています。

犬鳴谷

犬鳴谷

表門と呼ばれる箇所は入口の3段の石段をあがると、まっすぐ進む道と左側へ折れ曲がっている道があります。↓下の写真は左へ折れ曲がった道です。

この道の先に杉林があり、杉林のなかに低い石垣がつまれて四角の区画がつくられています。おそらくこの区画に建物がたっていたと考えられます。

上の写真に赤の破線を引いています。破線に沿って石垣がつまれています。おそらくこの石垣の内側に建物がたてられていたのではないかと考えられます。

 

表門のちかくに宮若市により建てられた案内板があります。その案内板には昔、描かれた犬鳴御別館の模式図がしめされています。図のどの箇所が、実際に残されているどの箇所であるかがわからないのですが、上の写真で破線で示した石垣は「②屋敷跡」の箇所にあたる石垣と予想されます。

↓こちらの写真は「③裏門」の跡と予想されます。表門と比較すると、崩れている箇所があり、やや崩壊がすすんでいる印象をうけます。

犬鳴御別館の裏門

犬鳴御別館の裏門

 

座標値:33.706824,130.554804

 

犬鳴御別館 表門にむかって左側の石垣…正面の石垣…はみごとに崩れおちています。崩れ落ちた石垣の上に土砂がかぶさり、さらに土砂の上に草と苔がはえています。そのため土手のようになっています。

今回、犬鳴御別館をみてわかったのは…①表門、②裏門、③建物があった場所…の3か所に石垣がのこっているということです。

 

案内板には、城内に「庭園跡」、司書の記念碑などが残っていると示されています。またさらに以下の建造物があったと文書に示されていると紹介されています。

 

文書によると、城内に藩主館、城外に長屋や宝蔵、火薬蔵などがあり、東側の西山連山の峠などの五ヶ所に番所を築くとあります

 

「西山」は、犬鳴御別館跡から北北東へ約1.6㎞の地点に頂上をもつ山です。標高は645m。この「西山連山」に番所がもうけられていたと記されていますが、国土地理院地図で「西山連山」にあたる場所がどこなのか確認してみます。

たしかに西山山頂から南方へ標高600~620m程度の「峰」がつらなっています。おそらくこの「峰」に敵の侵入をふせぐための番所がもうけられていたと想像されます。

 

こんなに奥深い山のなかに、こんなに立派な史跡が残されているとは…番所跡は調査がされたのか?犬鳴御別館の詳しい史料は図書館などに残っているのか?実際に人はどのくらいの期間住んでいたのか、など、さらに興味をひきだしてくれる史跡です。

不動明王像が祀られる滝 福岡県宮若市三ヶ畑

宮若市から糟屋郡篠栗町へとぬける県道92号線沿いにあります。滝は奥まったところにあり県道沿いからは、滝の前に建てられている弘法大師堂をみることができます。この滝のふきんにある史跡を探しに、車で県道92号線をはしっていたときに、たまたま見つけた滝です。観光マップにも、ネットにも、地図にも情報がないので、この滝に名前はないのでしょう。見つけたときはなんだか得した気持ちになりました。

 場所:福岡県宮若市三ケ畑

座標値:33.666102,130.590469

生活の中心の神様が道ばたに祀られていた 大分県国東市国見町竹田津

大分県 国東半島の国見町 竹田津という地区をあるいていたとき、草むらのなかに小さな石塔をみつけることができました。庚申塔かなにかかと思いよく観察してみると、その石塔には、あまり見慣れない名前の神様が刻まれていました。

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場所:大分県国東市国見町竹田津

座標値:33.665847,131.560942

 

笠付の石塔には「土公神」という文字が刻まれていました。この文字は「どくしん」または「どこうしん」、さらには「どくうじん」とも呼ぶそうです参照

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宿なし百神(川口謙二著)』P199には「どぐうしん」と紹介されています。

 

土公神は何から生まれた神様?

土公神はもともと陰陽道参照の考え方から生まれた神様です。陰陽道の考え方のひとつに、世の中のすべてのものは「木・火・土・金・水」の5つからつくられるというものがあるようです。この5つの要素をつかさどる神様が土公神であると考えられます。

 

さらに『宿なし百神(川口謙二著)』P200では…「でカマドをつくり、の鍋にをいれ、をくべてで煮て食べる」ことから、土公神は生活の中心である飲食を受け持つ神様であるとし、家の親神さまとして信仰される…と紹介されています。

 

土公神は その土地から離れられない

土公神は人の生活の中心となる神様で、土公神-Wikipediaでは特に”土”をつかさどる神様と紹介されています。生活の中心の神様であり、土地の神様であることから、家で土公神を祀った際は、他の神様よりも最優先でおそなえものがささげられるそうです。

 

また生活の中心の神様であり、土地の神様であることから、その土地や家からは絶対にはなれられないとされています。

 

土公神から地主神へとなる

よって土公神をまつった家の人が引っ越したときも、当然、土公神は家の人とともに写れないために、その土地に残ることとなります。もし古い家が壊されるようであれば、土地の片隅に小さな祠をたてて土公神を祀るそうです。

 

こうなると土公神は”土公神”という名前から”地主神”となります。

 

以前に大分県豊後高田市の見目という地区を歩いていたとき、家の跡地と思われる片隅に石祠が祀られていました。ぼんやりと、屋敷神がそのまま残されたのでははないかと想像していましたが、この土公神のことを知って、もしかしたら土公神が地主神となった際にたてられた祠なのではないかと思えるようになりました。

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場所:大分県豊後高田市見目

座標値:33.674538,131.544862

 

では今回、国見町竹田津でみつけた土公神は、どういう目的でこの場所に祀られたのでしょう?土公神が祀られている場所を、衛星写真でみてみます↓

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現在も住まている家の裏側の道ばたに土公神は祀られていました。土公神はこの家の神様であるという可能性とともに、以前に建てられていた家に祀られていた土公神であるという可能性も考えられます。もしかしたら、以前はこの場所に数件の家がたっており、そのうちの1件に、今回みつけた土公神が祀られていたのかもしれません。

岩倉八幡社の国東塔 大分県国東市国見町櫛来

毎年10月14日に「ケベス祭り」が、国東市国見町の櫛来社(岩倉八幡神社)でおこなわれます。この櫛来社拝殿の南西側約30mの地点に巨大な国東塔がまつられています。

石造宝塔 国東塔 〒872-1406 大分県国東市国見町櫛来3707 岩倉八幡社の国東塔

場所:大分県国東市国見町櫛来

座標値:33.673935,131.616821

 

櫛来社の国東塔は『国東半島の石造美術(酒井冨蔵著)』P46に紹介されています。しかしこの書籍で紹介されているものと、今回の記事で紹介する国東塔とは別のもののようです。書籍の写真と見比べてみても形が明らかにちがいました。 

櫛来社境内の別の場所に、もう一基国東塔があり私が見落としたのかもしれません。

今回の記事で紹介する国東塔は…

・塔身に比較的まるみがなく長方形

・台座(蓮花座と反花との境目)にくびれが少ない

…という特徴があります。

 

そのために全体をながめると、くびれの少ない円柱形のずんぐりとした印象を受けます。『国東半島の石造美術(酒井冨蔵著)』P11に紹介されている国東塔の例図↑と比較しても、くびれが少ないことがわかります。

 

櫛来社拝殿・本殿をぐるっと囲むようにして回廊のような立派な建物がたてられています。この回廊のような建物は、神域である本殿を、外界と区切るために設置される玉垣(たまかき:参照)としての機能をもっていると想像されます。

櫛来社拝殿と それを囲む回廊

 今回ご紹介した国東塔は、回廊の外側区域に祀られていました。

洗い流された土砂の上にかろうじて建つ祠 大分県豊後高田市夷

場所:大分県豊後高田市夷

座標値:33.6181811,131.5575229

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六所権現社境内にある夷社ちかくにある石祠です。おそらく昔はもっと祠のまわりにも土があったのでしょうが、長い年月をかけて土砂が雨に流されたのでしょう。

 

ガッチリと岩をつつみこんだ樹の根があらわとなっています。また、祠が建った岩も浮石のようになっています。なんとも珍しい景色です。

こんなところにも磨崖仏 大分県豊後高田市夷

場所:大分県豊後高田市夷 六所権現社境内

座標値:33.617868,131.557129

霊仙寺 六所権現 磨崖仏 大分県国東半島

 

大分県 国東半島にある霊仙寺(れいせんじ)から東へ約150mいった場所に六所権現社があります。この六所権現社鳥居をくぐりすぐ右側の岩壁に、上のような三基の磨崖仏が彫られています。

 

三基とも僧侶の坐像を刻んだものとみられます。左側の像は頭巾らしきものをかぶっています。

案内板には”磨崖像”と、シンプルに紹介されているのみです。この磨崖仏はなにを刻んだものなのでしょう。『国東 古寺巡礼』(渡辺克己著)P204にその詳細が紹介されています。

 

いい伝えでは中尊は六郷山開基の仁聞(にんもん)菩薩といい、左は比丘尼(びくに)、右は従者の比丘像という

 

仁聞菩薩は、国東半島において奈良時代に28の寺院をひらいた伝説の僧侶といわれています参照

国東半島には、観光パンフレットなどには掲載されていない、このような磨崖仏や石仏がたくさんあります。国東半島の史跡に関する書物を読むと、まだまだ発見がありそうです。