日々の”楽しい”をみつけるブログ

福岡県在住。九州北部を中心に史跡を巡っています。巡った場所は、各記事に座標値として載せています。座標値をGoogle MapやWEB版地理院地図の検索窓にコピペして検索すると、ピンポイントで場所が表示されます。参考にされてください。

岩倉八幡社の国東塔 大分県国東市国見町櫛来

毎年10月14日に「ケベス祭り」が、国東市国見町の櫛来社(岩倉八幡神社)でおこなわれます。この櫛来社拝殿の南西側約30mの地点に巨大な国東塔がまつられています。

石造宝塔 国東塔 〒872-1406 大分県国東市国見町櫛来3707 岩倉八幡社の国東塔

場所:大分県国東市国見町櫛来

座標値:33.673935,131.616821

 

櫛来社の国東塔は『国東半島の石造美術(酒井冨蔵著)』P46に紹介されています。しかしこの書籍で紹介されているものと、今回の記事で紹介する国東塔とは別のもののようです。書籍の写真と見比べてみても形が明らかにちがいました。 

櫛来社境内の別の場所に、もう一基国東塔があり私が見落としたのかもしれません。

今回の記事で紹介する国東塔は…

・塔身に比較的まるみがなく長方形

・台座(蓮花座と反花との境目)にくびれが少ない

…という特徴があります。

 

そのために全体をながめると、くびれの少ない円柱形のずんぐりとした印象を受けます。『国東半島の石造美術(酒井冨蔵著)』P11に紹介されている国東塔の例図↑と比較しても、くびれが少ないことがわかります。

 

櫛来社拝殿・本殿をぐるっと囲むようにして回廊のような立派な建物がたてられています。この回廊のような建物は、神域である本殿を、外界と区切るために設置される玉垣(たまかき:参照)としての機能をもっていると想像されます。

櫛来社拝殿と それを囲む回廊

 今回ご紹介した国東塔は、回廊の外側区域に祀られていました。

洗い流された土砂の上にかろうじて建つ祠 大分県豊後高田市夷

場所:大分県豊後高田市夷

座標値:33.6181811,131.5575229

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六所権現社境内にある夷社ちかくにある石祠です。おそらく昔はもっと祠のまわりにも土があったのでしょうが、長い年月をかけて土砂が雨に流されたのでしょう。

 

ガッチリと岩をつつみこんだ樹の根があらわとなっています。また、祠が建った岩も浮石のようになっています。なんとも珍しい景色です。

こんなところにも磨崖仏 大分県豊後高田市夷

場所:大分県豊後高田市夷 六所権現社境内

座標値:33.617868,131.557129

霊仙寺 六所権現 磨崖仏 大分県国東半島

 

大分県 国東半島にある霊仙寺(れいせんじ)から東へ約150mいった場所に六所権現社があります。この六所権現社鳥居をくぐりすぐ右側の岩壁に、上のような三基の磨崖仏が彫られています。

 

三基とも僧侶の坐像を刻んだものとみられます。左側の像は頭巾らしきものをかぶっています。

案内板には”磨崖像”と、シンプルに紹介されているのみです。この磨崖仏はなにを刻んだものなのでしょう。『国東 古寺巡礼』(渡辺克己著)P204にその詳細が紹介されています。

 

いい伝えでは中尊は六郷山開基の仁聞(にんもん)菩薩といい、左は比丘尼(びくに)、右は従者の比丘像という

 

仁聞菩薩は、国東半島において奈良時代に28の寺院をひらいた伝説の僧侶といわれています参照

国東半島には、観光パンフレットなどには掲載されていない、このような磨崖仏や石仏がたくさんあります。国東半島の史跡に関する書物を読むと、まだまだ発見がありそうです。

岡田社の庚申塔 大分県国東市国見町野田

大分県 国東半島、国見町野田にある”岡田社”の庚申塔を訪ねました。この庚申塔を訪ねるにあたり参考にさせていただいたのは、小林幸弘氏のホームページ「国東半島の庚申塔-国見町庚申塔所在地一覧」です。

 

場所:大分県国東市国見町野田

座標値:33.653843,131.587357

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岡田社の本殿を左側から裏側にまわっていくと、上の写真のような石祠群がみえてきます。上の写真だと左側一番手前にまつられているのが庚申塔です。

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自然石に「猿田彦命」という文字が刻まれています↓

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小林幸弘氏が訪ねたとき参照は、この庚申塔に注連縄(しめなわ)が結ばれていましたが、2020年6月20日時点では朽ちていました。

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庚申塔の裏側には「明治三庚午年 冬十一月下浣日」「講社中謹立」と刻まれています。明治三年は1870年で、干支は庚午(かのえうま)です。それにしても「十一月下浣日」の”下浣日”とはどういう意味なのでしょう。

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下浣は”げかん,かかん”と呼ぶようで、月末の10日間…つまり下旬のことを意味するようです参照。つまり1870年11月下旬に、この庚申塔は建立されたことがわかります。

邪鬼、夜叉も刻まれる庚申塔 大分県国東市国見町鬼籠

大分県国東半島の鬼籠という地域の集落 中心部にちょっとした広場があります。広場の入口には鳥居がたてられており、ここが神社であることが推察されます。鳥居の額面はかくにんできず、神社の名前は不明です。

 

場所:大分県国東市国見町鬼籠

座標値:33.662575,131.567873

国見町鬼籠の庚申塔

広場の一角に、石祠や石仏とともに庚申塔が2基祀られていました。

国見町鬼籠の庚申塔

一面六臂の青面金剛の足下に邪鬼、二童子、二猿、二鶏、四夜叉が刻まれます。庚申塔にむかって右側面に「寛延」の文字が確認できましたが、それ以下は風化がはげしくて確認することができませんでした。

 

そこで小林幸弘氏のホームページ「国東半島の庚申塔-国東市国見町地区の庚申塔所在地一覧 」を確認させていただくと参照、寛延三年(1750年)の銘が刻まれていることがわかりました。

寛延三の銘がきざまれる

もうひとつの庚申塔は、上記の庚申塔のすぐ左側に祀られています。無残にも半分折られています。青面金剛像が刻まれているのがわかりますが、足元に刻まれる像は、「横向の猿」が1匹確認できますが、こちらも風化がはげしいのと他の石塔の陰になり、全容ははっきりと確認できません。