日々の”楽しい”をみつけるブログ

福岡県在住。九州北部を中心に史跡を巡っています。巡った場所は、各記事に座標値として載せています。座標値をGoogle MapやWEB版地理院地図の検索窓にコピペして検索すると、ピンポイントで場所が表示されます。参考にされてください。

白粉で顔がぬられた轟地蔵 大分県杵築市大字溝井

場所:大分県杵築市大字溝井
座標値:33.444819,131.596337

悲恋の末、亡くなった姫を弔うために祀られた轟地蔵。渕のそばにある岩屋に祀られます。周囲には他にもおびただしい数の石仏があり、圧倒されます。

 

轟地蔵の顔に白粉を塗り祈願すると美人になれると云われているため、いつも顔は真っ白です。

谷に整然と祀られる地蔵尊 大分県杵築市大字溝井

場所:大分県杵築市大字溝井

座標値:33.444742,131.596340

婚約が破談し、悲しみのあまり轟(とどろき)の渕に身をなげて亡くなった姫様を弔うために祀られた地蔵尊があります。轟地蔵といいます。轟地蔵は杵築市街地から北西へ約4.3㎞の地点に祀られています。

 

上の写真は轟地蔵の周囲に祀られている、比較的新しい地蔵尊です。福岡県北九州市の「畑観音」と同じように、信者がそれぞれご自身の想いをこめた地蔵尊をもってきて、この地に祀っていっているために、たくさんのお地蔵様が祀られているものと想像されます。

 

参照:日々の”楽しい”をみつけるブログ-眼病に効くと云われる畑観音 どうして畑観音と呼ばれるようになった? 北九州市八幡西区

 

緑に囲まれた谷の斜面に、整然と並べられたお地蔵様が壮観でした。轟地蔵は、また別の機会にご紹介したいと思います。

見かけは神社なのに参拝のとき線香をたく不思議な社(やしろ) 大分県玖珠郡玖珠町 大字太田

大分県玖珠(くす)町に「吾精霊社」と呼ばれるお社があります。この社は不思議な風習があって、参拝する際に、まず蝋燭と線香を立て、それから鈴をならして通常神社で行なう参拝をおこないます。

 

吾精霊社の拝殿はこちらです↓ 

吾精霊社 拝殿 霊社 大分県 玖珠郡 玖珠町 太田

 場所:大分県玖珠郡玖珠町 大字太田

座標値:33.299936,131.148361

 

そして拝殿の前には蝋燭と線香をたてる箇所があります↓ 

どうして、このような風習が、吾精霊社にはあるのでしょう?そのヒントが吾精霊社の由緒板に書かれています。吾精霊社の成り立ちをかいつまんで書くと以下のようになります。

 

・吾精霊社に祀られるのは「村上隼人」と「四藤興惣右衛門」の兄弟

・村上隼人が兄です

・兄弟は才知にすぐれていました

・兄弟は森藩財政の立て直しに大きく貢献しました

・森藩の殿様に兄弟はかわいがられました

・特に兄は家老にまで出世しました

・しかし1709年兄弟は無実に罪に問われました

・結果、切腹を命じられ亡くなりました

・以来、森藩内に怪事がおこり続けました

・殿様が詳細を調べたところ兄弟が無実だと判明しました

・現 吾精霊社がある場所にお社を建てました

・9月5日を祭典日としお祭りをしました

・その結果、怪事がやみました

 

 つまり、吾精霊社に祀られるのは特別な神様ではなく、一般の人であったということです。そしてその方たち(兄弟)の霊を鎮めるために社を建てたのですね。

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由緒板には「なぜ線香と蝋燭を立てるのか?」その理由までは記されていませんでした。憶測ですが、思いを残し亡くなった村上兄弟の霊を弔うために、お寺のように線香をたくのではないかと予想されます。

 

 そして、後の世で村上兄弟は神格化され、怪事をおこすほどの霊力をもった人物であるために、その霊力で願いをかなえてくれる神様と評判となり、参拝者が増え、通常の神社のように鈴がつけられるようになったのではないかと考えます。

吾精霊社 拝殿 霊社 大分県 玖珠郡 玖珠町 太田

現在は神社のような社殿がつくられていますが、もともとは「村上隼人」と「四藤興惣右衛門」の兄弟の霊を弔うための社でした。そのときの名残が、線香と蝋燭を立てるという形で残っている、めずらしい社のご紹介でした。

航海の安全と豊漁祈願 ホーランエンヤ 大分県豊後高田市

航海の安全と豊漁を祈願。大分県豊後高田市(桂川)のホーランエンヤへ、2020年1月12日(日)に、はじめて行ってみました。

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場所:大分県豊後高田市 桂川

出港地点の座標値:33.5627975,131.4383681

 

旧暦の頃は元旦の行事であったそうですが、現在は元旦から1週間ほど遅い日曜日に開催されているようです。

 

2015年からの開催時期を調べてみると以下のようになりました。

 

2015年1月10日(土)

2016年1月10日(日)

2017年1月15日(日)

2018年1月7日(日)

2019年1月6日(日)

2020年1月12日(日)

 

多くの人が集まることができる日曜日に開催されているようです。

 

船の出港時間は朝の10時から。船の移動が終わるのが11時頃でした。

 

出港場所:ホテルAZ豊後高田市店の対岸

到着場所:御玉市民公園前

 

大漁旗や万国旗で彩られた宝来船が8の字に回りながら桂川を若宮八幡宮に向かってさかのぼります。

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その際、両岸にいる観客に向かって紅白餅が撒かれます。 

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宝来船が出港したばかりの10時時点では観客はまばらでしたが、時間を追うごとに、たくさんの人が集まってきました。

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要所要所で、観客から祝儀(金色の箱に入ったお酒)が差し出されます。その祝儀を取りに行くために、船の上にいる締め込み姿の漕ぎ手が、冷たい桂川へ飛び込みます。とんでもなく寒そうです。

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去年(2019年)のホーランエンヤでは、なんと観客が1万人も来られたそうです(参考:NHKラジオ放送情報)。

 

宝来船は桂川の両岸をゆっくりと回って行くので、観ているこちらも、ゆったりと写真を撮ることができました。f:id:regenerationderhydra:20200113041242j:image

出港間もない時間帯に来場していれば、ぎゅうぎゅうの観客にもまれながら、場所取りに必死になりながら撮る…という感じではありませんでした。

 

桂川沿い(ホテル清照〜御玉市民公園)で立っていれば、その区間をほぼ全域、ゆっくり宝来船が回ってくれます。

 

餅を撒くポイント地点があるので、餅を手に入れたい場合は、船にずっとついて行くのが良いように感じました。

 

11時ごろになると↓下の写真のようにとんでもない数の人たちが、川岸に集まっていましたので、来年もくるのであれば、早めに来場しようと思いました。

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江戸時代、島原藩の領地だった豊後高田は、島原藩やその大阪蔵屋敷へ年貢米を船で運んでいたそうです。その航海の安全と豊漁を祈願する行事として江戸時代中期に、ホーランエンヤが始まったといわれています(参照:Wikipedia-ホーランエンヤ (大分県)

3年ぶりの久住登山 大分県竹田市久住町

久住山は九重連山のひとつで1786mの標高。一番メジャーな登山口である牧ノ戸峠から登ると往復4時間前後で戻ってこれます。f:id:regenerationderhydra:20200112050517j:image

写真は久住山山頂付近より撮影したものです。はるかかなたに少しだけ見える山は由布岳です。

 

2020年1月21日(土)も朝早くからたくさんのかたが登っていました。

 

久住山を麓の避難小屋あたりから見上げたところの写真です。

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登山口から歩いて約1時間半前後で、久住山の山容を確認することができます。それまでは、他の山に隠されて久住山を見ることはできません。

 

日本百名山を定めた深田久弥氏は、久住山のことを以下のように評しています。

 

(九重の山々のなかでも)何といっても品のあるのは久住山である。殊に北側の千里浜と呼ばれる原から眺めた形は、精鋭で颯爽としていて、九重一族の長たるに恥じない

 

福岡から牧ノ戸峠登山口まで下みち(車片道)で3時間。久住登山(往復)で4時間。合計約10時間。

 

仮に福岡県に住んでたら、久住登山は1日がかりのレジャーになります。絶景が楽しめる贅沢な時間の使い方だと感じます。

 

↓こちらは久住山の山腹から北側を眺めた写真です。

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↑左から硫黄山、三俣山、由布岳(はるか遠く)を見ることができます。由布岳は別ですが、このように連なる山々を見ると、まさに「連山」という言葉がピッタリです。

 

雪こそつもってはいませんが、早朝は土に含まれる水分が凍り、それを踏むごとにスナック菓子を砕くような「バリぼり…」という子気味の良い音がなります。

 

日が昇り水分が溶けてくるとぬかるみとなり歩きにくくなるので、すばやく下山します。

 

↓こちらは久住山山腹から避難小屋を写した写真です。星生山の麓にとても小さく避難小屋が写っています。
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↓久住山山頂から南側を写した写真です。阿蘇の集落と、雲海からひょっこり頭をだす阿蘇山が見えます。
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この写真からさらに左へ目を向けると、祖母山も雲海から頭を出していました。

 

山頂はとても風が強く手袋をしていても、だんだんと手指がかじかみ動かなくなってきます。このような厳しい環境になると、ホームセンターで買った防寒手袋の限界を感じざるをえません。

 

おぼつかない手で、カメラの設定ボタンや、レリーズを操作します。このときは、まだカメラの液晶画面は正常に動いていました。

 

さらに気温が下がると、液晶は映らなくなり、カメラ自体の動きも悪くなってきます。寒さで電源を入れても、もっさりとした動きとなってしまいます。そんなときは、カメラが直接風に当たらないよう、ジャケット等で保護する必要があります。f:id:regenerationderhydra:20200112055538j:image

↑左から由布岳(はるかかなた)、天狗ケ城、中岳、白口岳(たぶん)。天狗ケ城の前は深く切れ落ちている空池です。

 

深田久弥氏は九重連山のことをたしか「共和国」と表現していたと記憶します。久住山や中岳山頂から周囲を眺めると、その「共和国」という言葉がピッタリくることが実感できます。