日々の”楽しい”をみつけるブログ

福岡県在住。九州北部を中心に史跡を巡っています。巡った場所は、各記事に座標値として載せています。座標値をGoogle MapやWEB版地理院地図の検索窓にコピペして検索すると、ピンポイントで場所が表示されます。参考にされてください。

戸脇(とわき)神社の筑前御殿神楽 ③/⑨ 福岡県北九州市若松区乙丸(おとまる)

福岡県北九州市若松区の乙丸(おとまる)という地区にある戸脇(とわき)神社で、2019年10月8日(火)に筑前御殿(ちくぜんごてん)神楽が舞われました。

 

場所:福岡県北九州市若松区大字乙丸 「戸脇神社」

座標値:33.908777,130.694710

 

今回の記事では里神楽の、久米(くめ)の舞をご紹介します。前回の記事では弓の舞をご紹介したので、パンフレットの順番としては、太刀(たち)の舞が舞われるのではないかと思いました。しかし、実際には先に久米の舞のほうが先に舞われました。

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筑前御殿神楽の構成

久米の舞がはじまったとき、周囲にちょっとした変化が起きたのが印象に残っています。周囲で神楽を見ていたかたがたが、いっせいに手元のスマホやカメラを持ち上げて、熱心に写真等を撮り始めました。

 

どうも久米の舞は、他の舞とは趣が異なるのかなと予想されました。その通りで、これまで舞われた「榊の舞」「弓の舞」とは違い、とても動きの激しい舞でした。

神主様は白い上衣を着ており、両手に、米が入った折敷(おしき:檜(ひのき)のへぎで作った縁つきの盆)を持っています。折敷には米が入っており、この米をこぼさないように、舞います。

 

久米の舞は、神様からの恵みによりいただいた米への感謝と、五穀豊穣への感謝の舞です(参照:パンフレット)。

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神主様は米が入った折敷をもったまま、サササッと歩き、そのままクルクルと何回転もその場でまわります。目が回って倒れてしまうのではないかと、心配してしまうほどです。

しかし、さすがにプロのかたです。ふらつくこともなく、久米の舞を約10分間、舞い続けました。

こんな激しい舞にもかかわらず、米がほとんどこぼれなかったのは、驚異でした。

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次回の記事では、里神楽の最後…太刀(たち)の舞をご紹介します。

戸脇(とわき)神社の筑前御殿神楽 ②/⑨ 福岡県北九州市若松区乙丸(おとまる)

福岡県北九州市若松区の乙丸(おとまる)という地区にある戸脇(とわき)神社で、2019年10月8日(火)に筑前御殿(ちくぜんごてん)神楽が舞われました。

 

場所:福岡県北九州市若松区大字乙丸 「戸脇神社」

座標値:33.908777,130.694710

 

今回の記事では里神楽の弓の舞をご紹介します。 

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今回は里神楽-弓の舞をご紹介

弓の舞を舞う神主様は、小豆色の上衣を着、右手に鈴、左手に弓をもっています。弓の舞は、前回の記事でご紹介した榊(さかき)の舞と同様に、全体的にゆっくりとした動きで、優美さが感じられる舞でした。

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弓の舞

太鼓と笛の音にあわせ、シャンシャンと鈴を鳴らしながら、左手に持つ弓をゆっくりと回します。すばやい動きではないものの、身体全体をつかって大きく舞を舞う印象です。

神楽で使用される弓は神具としての意味を持ってます(参照:パンフレット)。弓と矢は人間の生活のなかでは、狩猟で食物を得るためであったり、武器として自身の身を守る道具であったりと、重要な意味を持つ道具でした。

 

昔から重要な道具であったために神楽のなかでも、弓と矢が使用されるようになったのだと考えられます。

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約7分間の舞でした。弓の舞が行なわれている時点でも、周囲の観客は少なかったです。私たち家族を含めても、ほんの10人ほどの観客しかいなかったと記憶しています。

 

次の投稿では久米(くめ)の舞をご紹介します。久米の舞から、とても動きの激しい舞となりました。

戸脇(とわき)神社の筑前御殿神楽 ①/⑨ 福岡県北九州市若松区乙丸(おとまる)

福岡県北九州市若松区の乙丸(おとまる)という地区にある戸脇(とわき)神社で、2019年10月8日(火)に筑前御殿(ちくぜんごてん)神楽が舞われました。

 

場所:福岡県北九州市若松区大字乙丸 「戸脇神社」

座標値:33.908777,130.694710

 

戸脇神社の筑前御殿神楽の構成は以下の通りです(参照:配布されたパンフレット)。

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戸脇神社での筑前御殿神楽の構成

筑前御殿神楽は、室町時代(1300年代から1500年代)から旧遠賀郡と鞍手郡の神職家に伝えられている神楽といわれています。『北九州市史(民俗)』P.1167では、文献のうえでは1859年(安政六年)に福岡藩主に献演したものが最も古い、と紹介されています。筑前御殿神楽が、いつごろから伝えられているのかは、はっきりとした年代は不明です。

 

筑前御殿神楽の特徴は、舞人が神職であることで、”舞い振りが極めて抽象的かつ優雅で”あり、北九州内の他地域で舞われる神楽とは趣が異なるという点です。

 

今回は、「里神楽」のなかの一番目…「榊(さかき)の舞」をご紹介します。

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里神楽-榊の舞

榊(さかき)とは、神棚や祭壇に供えられる緑色の葉の植物のことで、上の写真だと、神主様が左手に持っている植物のことです。もう少し榊がはっきりと見える写真が↓こちらです。

神楽では、この榊は特に大麻(おおぬさ)と呼ばれます。これから始まる舞いを前に、私たちや、私たちの心、その他すべてのものを祓い清める目的で、榊の舞が舞われます。まさに始まりの舞です。

 

戸脇神社の里神楽がはじまったのが、19時10分頃。榊の舞は、おおよそ7分ほどで終了しました。この時点では、神楽を見学するかたたちは数名でした。社殿のなかは、シャンシャンという鈴の音と、横笛の音のみ。舞自体も激しい動きのものではありませんので、静かな境内では厳かな雰囲気が感じられました。

次回は「里神楽-弓の舞」をご紹介します。

2019年10月8日 北九州市ではじめて神楽を拝観しました 福岡県北九州市若松区乙丸(おとまる)

福岡県北九州市若松区の乙丸(おとまる)という地区にある戸脇(とわき)神社で、2019年10月8日(火)に神楽(かぐら)が舞われました。神楽の名前は、『筑前御殿神楽(ちくぜんごてんかぐら)』です。その神楽を拝観してきました。

 

場所:福岡県北九州市若松区大字乙丸 「戸脇神社」

座標値:33.908777,130.694710

 

北九州市の北部地域で神楽が残っているとは知りませんでした。乙丸にある戸脇神社は、とても小さな神社で、まさか、このような小さな神社で毎年、神楽が開催されているとは…。

 

戸脇神社で、筑前御殿神楽が舞われていることを知ったのは、『北九州市史(民俗)』のP1167です。

 

毎年十月中旬から下旬にかけて、八幡西区熊野神社ほか八幡東・西区、若松区、中間市ほかの神社一二社で演じられている。なお「湯立神楽(ゆたてかぐら)」は、若松区大字乙丸の戸脇神社のみで行っている。

 

…とあります。この情報をもとに、ネットで北九州市の神楽について調べてみると、乙丸の戸脇神社では、毎年10月8日に神楽が舞われていることを知るに至ったのです。 この記事が投稿される2019年10月9日時点、まだこれから北九州市各所で、神楽が開催されると予想されます。

戸脇神社での筑前御殿神楽では、舞や、それぞれの舞の間に挿入される解説には、熟練さが感じられ、神楽に慣れた神職の方々によって、これら神楽は催されているのだなという印象を受けました。

 

戸脇神社でいただいたパンフレットでは以下のように、神楽が構成されていることが紹介されていました。

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戸脇神社における筑前御殿神楽の構成

里神楽(さとかぐら)→面神楽(めんかぐら)→湯立神楽(ゆたてかぐら)の順番で舞われ、夜7時から9時15分くらいまで催されました。

 

次回の投稿から、順番に各舞をご紹介したいと思います。

枝光八幡宮境内の中臣神社に祀られる「咳の神様」 福岡県八幡東区諏訪

『北九州市史(民俗)』のP664に、「咳の神様」という珍しい神様が紹介されていました。その神様が祀られているのが、北九州市八幡東区にある枝光八幡宮の境内です。

場所:福岡県北九州市八幡東区諏訪

座標値:33.871991,130.820398

 

枝光八幡宮境内に、摂社(※1)である中臣神社が祀られていますが、その中臣神社の敷地内に上のような写真の、咳の神様が祀られていました。

 

※1.本社に付属しその祭神と縁の深い神を祭った社(やしろ)

 

中臣神社は、枝光八幡宮本殿に向かって左側のスペースに祀られています。↓こちらの写真は枝光八幡宮を写したものです。

↓こちらの写真は枝光八幡宮の摂社である中臣神社を写したものです。

中臣神社の鳥居は木製で、その額面の文字は、かすれてしまっていて、『北九州市史』の情報なしでは、読み取ることができませんでした。「臣」の部分が「目」という文字に見え、「生目神社」なのかなと勘違いしていました。しかし、よくよく眺めると「中臣神社」と読み取ることができます。

この中臣神社の本殿に向かって左側に、咳の神様を雨から守るための屋根が設置されていました。屋根の下に咳の神様のご神体である大きな岩が祀られています。

『北九州市史(民俗)』P664では、この神様について以下のように説明されています。

 

中臣神社は昔、「中臣様」といって咳どめに効験がある神様として村人から崇められ、咳どめ祈願の参拝をして全快したときは、そのお礼として白粉団子をお供えする風習があった。

 

この風習と似た風習が紹介されているのが、『宿なし百神(東京美術選書〈12〉)』P150です。ここでは以下のように、杓子(しゃくし)を使ったお参り方法が掲載されていました。

 

咳の神にはたいがい杓子が上っていて、それを一本借りて帰り、患者の口、咽喉をさすり、お祈りして、快癒すると新しい杓子を添えて年号、氏名、年齢、性別を書いて奉納するのが普通である。

 

どうして、咳の神様に杓子(しゃくし)なのかというと、石神→シャクジン→シャモジ→咳神…となったということです。 シャモジやシャクシが咳の神様を象徴するものとして参拝に使用されるというのは、昔からある考え方なのだそうです。

 

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咳の神様のご神体である大きな岩の隣に、↓下の写真のような案内板が設置されていました。しかし、中臣神社鳥居の額面同様に、その大半がかすれてしまっていて、内容の詳細を読むことができませんでした。

この木製看板の、読み取れる部分をキーワードだけ抜粋すると以下のようになります。

・咳の神様

・明治時代

・大黒主ノ命

・佛号では薬師如来

・建立年代不詳

 

しかし、これだけのキーワードでは、文章の全体像を想像することは、時間がかかりそうなので、いったん保留とすることにしました。

新しい門司港駅 夜間ライトアップ 福岡県北九州市門司区

北九州市にある門司港駅がリニューアルされたということは、なんとなく知っていましたが、こんな綺麗な駅になっているとは知りませんでした。門司港駅が造られた当時(大正3年)と同じ姿に”復原(ふくげん)”することを基本方針とし、2019年3月10日にグランドオープンしました。

 

現在使用されている駅舎で、国の重要文化財として指定されているのは、東京駅と、ここ門司港駅だけなのだそうです(参照:北九州市ホームページ)。

場所:福岡県北九州市門司区西海岸

座標値:33.945242,130.961596

北九州の廃線史跡を訪ねる 尾倉橋梁(おぐらきょうりょう) 福岡県八幡東区尾倉

福岡県北九州市に、むかし、「大蔵線(おおくらせん)」と呼ばれる鉄道路線がありました。現在は廃線となっています。その廃線史跡のひとつである、尾倉橋梁を2019年9月29日(日)に訪れてみました。

場所:福岡県北九州市八幡東区尾倉

座標値:33.864119,130.801098

 

現在、海岸沿いを走っているJR鹿児島本線とは異なり、大蔵線はやや内陸部を走っていた路線でした。※鹿児島本線は路線の一部を表しています。

大蔵線が開通した年は1891年(明治24年)です。大蔵線は、長崎街道に沿ったかたちで敷設されました。

 

大蔵線は、もともと上の図でいうと、黒色の路線(現在の路線である鹿児島本線)に沿って敷設される予定でした。しかし、当時の陸軍により反対され、それよりも内陸部に敷設されることとなりました。陸軍が、海からの砲撃による線路破壊を危惧したためです(参照:Wikipedia-大蔵線)。

 

結局、海岸沿いの路線はのちのちに敷設され、大蔵線は1911年(明治44年)に廃線となりました。大蔵線が使用されたのは、わずか20年でした。

 

その大蔵線が通った跡として残っているもののひとつが、この尾倉橋梁です↓

場所:福岡県北九州市八幡東区尾倉

座標値:33.864119,130.801098

 

以前、線路が走っていた場所は、現在では道路として活用されていますので、この尾倉橋梁では道路が立体交差している形となっています。上の写真は尾倉橋梁を南側から撮ったものです。

 

Google mapの衛星写真で確認すると立体交差している様子がわかりやすいと感じました。

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尾倉橋梁と廃線跡の位置関係(Google map)

一枚目にご紹介した写真をもういちど載せてみます↓ この写真は尾倉橋梁を北側から撮ったものです。

↓こちらは橋梁の下を撮った写真です。明治時代につくられたために、レンガを主に使用しています。

壁は煉瓦の長手と小口を交互に積むイギリス積み。アーチは煉瓦の小口を五段積みにした弧型アーチで、アーチののる迫台(せりだい)は花崗岩の切石積(抜粋:案内板)

 

レンガを積んで作ったアーチの両側を、重量のある花崗岩でできた迫台(せりだい)で挟んで崩れにくくした…ということのようです。

 

北九州市のホームページ(旧九州鉄道橋梁跡)では、もうひとつの橋梁跡である「茶屋町橋梁跡」とともに、この尾倉橋梁が紹介されていました。