日々の”楽しい”をみつけるブログ

福岡県在住。九州北部を中心に史跡を巡っています。巡った場所は、各記事に座標値として載せています。座標値をGoogle MapやWEB版地理院地図の検索窓にコピペして検索すると、ピンポイントで場所が表示されます。参考にされてください。

カミサマのいる場所 福岡県福津市勝浦

新原(しんばる)・奴山(ぬやま)古墳群のひとつである22号墳の上には縫殿宮というお宮がありましたが、いまでは建物がなくなり、建物がたっていたと思われる場所には台座だけが残され、その台座の上に石が積まれています。

 

場所:福岡県福津市勝浦

座標値:33.817607,130.485892

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縫殿宮へと続く石段

数年前に、縫殿宮を訪れたときには、墳丘へ登る階段の前に白い鳥居がたてられていた記憶があります。しかし現在(2019年6月15日)には鳥居はとりはずされていました。また、縫殿宮ときざまれた扁額(へんがく)とともに、石祠も↓この場所に祀られていたと記憶していましが、それもなくなっていました。

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お宮があったと思われる場所には石が積まれているのみ

この縫殿宮が祀られていた22号墳から東へ約1㎞いった場所に「縫殿神社」があります。兄媛(えひめ)という神さまが縫殿神社には祭られているために、22号墳上のこの縫殿宮も兄媛とかかわりのある神さまが祭られていたのかもしれません。

 

縫殿宮を訪れたのは、雨が多く降った後の夕暮れです。湿気の多い艶やかな感じを写真におさめてみたかったのですが、なかなか思い通りに表現ができませんでした。

透明感のある手水鉢 北九州市若松区小竹

今はもう使われなくなったのでしょう。本来、水がたたえられるべき窪みはカラカラに乾いていました。いびつなまあるい形に削られた手水鉢(ちょうずばち)は、「素朴」という言葉が似あいます。樹々の間からこぼれる陽に、鉢は照らされ、どこか透明感が感じられました。

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白山神社の手水鉢

場所:福岡県北九州市若松区小竹

座標値:33.912705,130.746016

カミサマのいる場所 福岡県鞍手郡新延 鎧塚古墳

剣神社の境内で発見された鎧塚古墳。剣神社の本殿に向かって左側に、木漏れ日の美しい杉林があります。その杉林のなかに、ポッコリと小さな丘をみることができます。これが鎧塚古墳で、正確には古墳群です。

 

場所:福岡県鞍手郡鞍手町新延

座標値:33.789290,130.663955

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鎧塚古墳の祠

写真の墳丘から周囲をみわたすと、杉林のなかに祠が見え、たしかにほかにも古いお墓があることが確認できます。お墓の上に祠が祀られているのは、よく考えてみると奇妙な感じがします。祠は神さまを祀ったもので、死者を弔ったものの上に建てられるものではないからです。

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草木に埋もれるように祠がみえる

昔のひとは、古墳を単なる死者を埋葬するためだけの施設としてとらえていたのではなく、そこに神聖な意味(亡くなったかたが神となり、そこに鎮座している…など)を込めたのではないかと想像できます。

 

写真を撮影した日は強い日差しにもかかわらず、杉林のなかの日差しは、やさしい木漏れ日となり、周囲はひんやりとした風が吹いていました。

カミサマのいる場所 福岡県北九州市小竹 白山神社

福岡県北九州市の若松区には、いくつか白山神社という名前の神社があります。そのうちのひとつ、小竹という地区にある白山神社にある大樹です。大人が両手いっぱい広げて3~4人で抱えるほとの立派な幹。そのゴツゴツとした幹はたくさんのコケに覆われています。

場所:福岡県北九州市若松区小竹

座標値:33.912666,130.745961

 

小竹の白山神社境内は、雑草におおわれており、今ではあまり訪れる人もいなくなったのではないかと考えられます。撮影の間は、たくさんのやぶ蚊に襲われました。白山神社の本殿は小岳山の山頂にあるとされています(参照:北九州の史跡探訪P127)。

その山頂までの参道も草木におおわれ、山頂まであがってゆくのはとても勇気がいります。かつて「脇の浦裸祭り」があったころには、若者が夜、この階段を山頂まで駆け上がり、豊漁と航海安全を祈願したといわれます。

朝靄に沈む集落 大分県院内町野地

大分県の北部にある宇佐市院内(いんない)町では、山間の谷にあたる箇所に、点々と集落がつくられています。溶岩でできた山々は、長年の風雨による浸食により、ゴツゴツとした奇岩を有します。

 

この写真は、大分県を南北に走る国道387号線ふきんから撮影したものです。「ふきん」…と付け加えたのは、正確には、現在の国道ができる前に使われていた旧道から撮ったからです。

 

撮影場所:大分県宇佐市院内町野地

撮影場所の座標値:33.374216,131.265095

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朝の靄に沈む院内町の来鉢地区

この撮影場所からは、院内の谷が一望でき、まさに絶景が広がります。条件が整えば雲海をも見ることができます。

 

いい景色がみられるのではないかと、この写真を撮った朝は、6時半ごろに現地に到着しました。しかし、思った以上の曇りで、おまけに靄がかかっていました。重くたちこめる雲の合間から、わずかに奇岩が顔をみせてくれました。奇岩を乗せる山に抱かれるように集落がつくられており、院内町独特の景色が広がりました。

水田に映えるアーチ橋 幸野川橋梁 熊本県小国町北里

こちらの写真は、今はもう廃線となった宮原(みやのはる)線という鉄道路線の一区画に架けられた橋梁(きょうりょう)です。幸野川橋梁と呼ばれますが、橋梁は「幸野川」に架かるわけではなく、「樅木(もみのき)川」に架かっています。

 

2019年6月9日(日)に撮影したもので、ちょうど水田に水が張られており、橋梁のアーチが水に映え、アーチと植えられた稲の微妙な曲線が、なんとも印象的な景色です。

場所:熊本県阿蘇郡小国町北里

座標値:33.136409,131.077563

 

宮原線は大分県玖珠郡九重町の恵良駅から、熊本県阿蘇郡小国町の肥後小国駅までを結んでいた鉄道です。

 

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宮原線の跡を、先日、ざっくりと車でまわってみました。熊本県の小国町を中心に、ところどころ線路の跡が残っており、周りがいのある線路跡だと感じました。下調べをして、機会ができれば、宮原線をたどってみたいと思いました。

神さまと仏さまがいっしょに祀られる下市磨崖仏(しもいちまがいぶつ) 大分県宇佐市下市

昔、大分県の宇佐市・豊後高田市に住んでいたとき、近所にある各所史跡をみつけては、足を運んでいました。でもその当時は、図書館などの資料を調べて、どこにどんな史跡があるのか下調べしてから史跡を探す…など、行なっていませんでした。

 

そのため、長い間住んでいた地域でも、まだまだみつけていない史跡がゴロゴロとあります。大分県に用事があり、そのついでに足を運んだのが、今回ご紹介する下市磨崖仏(しもいちまがいぶつ)です。

 

場所:大分県宇佐市安心院町下市

座標値:33.442511,131.350398

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室町時代作の阿弥陀如来坐像(右)と薬師如来立像(左)

「安心院」と書いて「あじむ」と呼ばれる町の、北端にこの磨崖仏は祀られています。不動明王坐像を中心にぜんぶで10体、岩壁に仏様が刻まれており、10体を総称して下市磨崖仏とされます。下市というのは地名からつけられたようです。

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室町時代作の不動明王坐像

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室町時代作の聖観音菩薩坐像

下市磨崖仏が祀られている場所は、火産霊(ほむすび)神社と呼ばれており、↓下の写真のように、鳥居で仕切られた空間となっています。鳥居をくぐって正面に拝殿があります。その拝殿の手前左側岩壁に磨崖仏が刻まれています。 神様の空間に、仏様がたの姿が刻まれているとは、なんとも不思議な場所です。

 

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火産霊神社

しかし、どうして、神社に仏様が刻まれてたのでしょう?その経緯が案内板に紹介されていました。

 

下市磨崖仏から南西へ約150mいった場所に三女神社が祀られます。この三女神社に関連する神社として、火産霊(ほむすび)神社はつくられました。

 

それが西暦500年ごろです。神社がつくられてから後の室町時代(1300~1500年頃)に、この地に高僧がおとずれ、三女神社を参拝したあと、火産霊神社境内にある岩山に仏様を刻んだとされています(参照:案内板)。

 

宇佐国東地域は、このように神様と仏様との信仰が明確に区別されず、ゆるく溶け合う文化が栄えた地域です。火産霊神社もその一例と考えられます。

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聖観音菩薩坐像の膝元に祀られる石仏

 神社自体は火産霊神社という名称ですが、磨崖仏のひとつである不動明王様をふくめ、この場所は「生き不動」とか「乳不動」と呼ばれています。

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 産後の母が不道明王像に粥を供えて、そのお下りを食べたところ、乳が出るようになった(参照:下市磨崖仏 - Wikipedia)という伝承が残っているためです。

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薬師如来立像

下市磨崖仏は川を隔てて、安心院の町からは少し離れた場所にあります。駐車するための十分なスペースもあり、人に気兼ねすることなく、ゆっくり撮影することができました。