日々の”楽しい”をみつけるブログ

福岡県在住。九州北部を中心に史跡を巡っています。巡った場所は、各記事に座標値として載せています。座標値をGoogle MapやWEB版地理院地図の検索窓にコピペして検索すると、ピンポイントで場所が表示されます。参考にされてください。

福岡県直方市(のおがたし)の特殊な庚申塔

直方市(のおがたし)は、福岡県の北部に位置する市です。直方市域を車ではしっていると、庚申塔(こうしんとう)をみかけることがたびたびあり、この地域は、比較的、古い文化が残されている印象を受けます。そこで、庚申塔分布の一覧表などが載っていないか、図書館で直方市史を調べてみました。

 

ありました。ありました。

 

直方市の庚申塔一覧が掲載されているのは、直方市史(下)P903-905です。直方市史が発刊されたのは1983年(参照)で、この当時では直方市には庚申塔は36基庚申堂が3社残されていたと記録されています(参照:直方市史(下)P891)。

 

おどろいたことに、1983年時点で庚申講(こうしんこう)…つまり集落内で2か月に1回に集まる庚申の集まりが10座も残されていたといいます。とても古い文化を大切にする地域なのかもしれません。

 

そんな直方市の庚申塔のなかで、「七鬼神庚申塔」という庚申塔があります。全国的にも珍しい庚申塔なのだそうで、これについての記事は以前にご紹介しました(参照)。

 

 この記事では3つの七鬼神庚申塔をご紹介しました。この3つを探して以降は七鬼神庚申塔をみつけることはありませんでした。しかし、今日(2019年3月13日)、またひとつ七鬼神庚申塔を見つけることができました。

 

場所:福岡県直方市上新入1661-4【明神社】

座標値:33.7533951,130.7198334

直方市の上新入(しんにゅう)という地区にある明神社(みょうじんじゃ)境内に、七鬼神庚申塔は祀られていました。となりには猿田彦大神の庚申塔も祀られていました。

祀られている場所は明神社本殿に向かって右横。本殿右横のせまいスペースを通るとすぐ右側に、三基の石塔と二基の祠が、小さなスペースに横一列となって祀られているのが確認できます。

これらの石塔・石祠はしげみのなかに埋もれはじめていました。

七鬼神庚申塔にむかって右側面には「文政十二歳」と刻まれています。西暦1829年の建立ということがわかります。

七鬼神庚申塔にむかって左側面には「丑正月吉日」と刻まれます。1829年の1月に建立されたと推定されます。文政12年の干支は己丑(つちのとうし)で、庚申塔に「丑」と刻まれていることと整合します。

 

一方、七鬼神庚申塔の左となりに祀られている猿田彦大神の庚申塔には、「天保十五年 辰十月吉日」と刻まれ、建立が1844年の10月であることがわかります。

「天保十五」の「五」の部分が「二」のようにみえなくもないですが、天保十五年の干支(かんし)は甲辰(きのえたつ)で、「辰十月吉日」の「辰」の文字と整合するので、やはり天保十五年であると推定します。

 

もうひとつ、なにも記銘のない石塔が1基祀られています。もしかしたら、この石塔も庚申塔なのかもしれませんが、たしかめる術はありません↓

明神社周囲には、駐車場はありません。ただ神社の前の道路は広くなっている場所もあり、駐車禁止看板もないので、じゃまにならないよう道路わきに車を停めさせていただきました。

 

明神社からは福智山と直方の街を一望でき、眺めが格別でした。

秋芳洞のみどころ⑨/⑪ 石灰華の滝

石灰華の滝」は、秋芳洞正面入口からおよそ800m入り込んだ場所にある地形です。黄金柱と呼ばれる巨大な石灰岩の柱を通りすぎると、鍾乳洞はやや狭いトンネル状の通路となります。トンネルを通りすぎると、ひらけた場所となり、左やや後方にこの石灰華の滝があります。

 

トンネルを抜けると正面に巌窟王(がんくつおう)と呼ばれるこれまた巨大な石筍(せきじゅん)があるので、石灰華の滝は、素通りしてしまいそうな存在でした。でも上からせまってくるようなこの岩壁には、美しい模様が岩の表面にうきでており、写真におさめられて良かったと思えるものでした。

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「方解石(ほうかいせき)の結晶」?「炭酸カルシウムが過飽和」?など、この岩のできかたを調べてみるとむずかしい言葉がならんでおり、頭がパンク状態です。この岩の綺麗な模様は、ざっくりと解釈すると…炭酸カルシウムが結晶化してできたもの…のようです。

秋芳洞のみどころ⑧/⑪ 黄金柱

正面入口→青天井→長淵→百枚皿→洞内富士→千町田→千畳敷…と、秋芳洞を進んできました。秋芳洞の正面入口から約650mすすんだところに、黄金柱と呼ばれる巨大な石灰岩の柱が立っています。仰ぎ見るほどの巨大さに圧倒されます。黄金柱は巨大なうえに、表面には細かな装飾模様のようなヒダが刻まれています。

 

この装飾模様もやはり地下水により刻まれたもので、ずっと昔は天井から滝のように地下水がここを流れていたのだそうです。その痕跡がこのように模様として刻まれているのですね。

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黄金柱

黄金柱は愛称であり、正式の名前は石灰華柱(せっかいかちゅう)です。炭酸カルシウムが結晶化してものなんだそうです(参照)。

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黄金柱の切れ目

この黄金柱を目の前にすると、上のほうを眺めることに気をとられてしまいますが、みどころのひとつは黄金柱の根元にもあります↑

 

上の写真をよく見てみると、黄金柱の根元に横方向への亀裂(切れ目)があるのがわかります。実はわたしはこの亀裂のことを知らず、後に、『秋芳洞の自然観察』P13を読み知りました。この切れ目は床がさがってできたものらしいのです。

 

床がさがるというのはどういうこと?と思いますが、黄金柱のしたには洞窟があるそうで、床が不安定となりさがったのだそうです。

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黄金柱に向かって右側に階段があり、その階段からさらに洞窟の奥へと進むことができます。階段をのぼりおりする人と比較すると、黄金柱の巨大さが感じられるのではないかと思います。

秋芳洞のみどころ⑦/⑪ 傘づくし・大黒柱・千畳敷(せんじょうじき)

正面入口→青天井→長淵→百枚皿→洞内富士→千町田…と、秋芳洞のみどころを見てきました。今回は千町田のすぐ北側にある傘づくし・大黒柱そして千畳敷(せんじょうじき)の写真をご紹介します。

 

場所:正面入口から約500m~700m

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傘づくし

洞窟内の天井からツララのような鍾乳石が何本もたれています。見やすいように照明がてらされているのでありがたいです。上の写真の左下に遊歩道があり人が2人歩いています。洞窟内のスケールの大きさがなんとなく感じられるのではないでしょうか。

 

天井から滴る地下水に石灰分が含まれ、これにより、徐々にこの”ツララ”ができあがっていきます。天井のツララは鍾乳石と呼ばれます。いっぽうで、水滴が床面に落ちて、タケノコのように床に盛り上がっていっている鍾乳石は石筍(せきじゅん)と呼ばれるようです。

 

むかしの傘屋さんは天井から傘をぶらさげて売っていたそうで、秋芳洞のこの場所がむかしの傘屋さんに様子が似ていたため、「傘屋の天井」とか「傘づくし」と呼ばれるようになりました(参照:秋芳洞の自然観察P11)

 

↓こちらは大黒柱と呼ばれる石柱です。天井からのびる鍾乳石と、地面から盛り上がる石筍がついに合体し一本の柱となったものです。

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傘づくしと大黒柱がある場所はほぼ同位置です。この場所から左手に空滝(からたき)を見ながら、ゆるやかな坂道(階段)を登って100m弱歩をすすめます。

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空滝

このあたりは地下水が天井から滴る場所は少ないようです。傘づくしや、この空滝を眺めてみると、表面は水で湿っていません。むかし造られた造形物であり、現在では成長が止まっているものなのでしょう。

坂道を登る途中で千畳敷(せんじょうじき)と呼ばれる広い空間に入っていくことになります↓

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千畳敷を坂の上から見おろす

この写真は坂をのぼりきり後ろをふりかえったところです。遊歩道に何人か人が登って生きているのが写っています。人が豆粒のようです。ゴロゴロとした大きな岩があちこちに転がっていますが、これらはむかし天井が落ちたものなのだそうです(参照:秋芳洞の自然観察P12)

 

これらの落盤の下にある礫層は約2万3000年前のものなので、天井から石が落ちたのは2万3000年以降に起きた事件だったようです。

 

こんな大きな岩が天井から落ちてくるなど、想像すると恐ろしいですが、もう1万年も前に地質は安定したそうで、それ以降は大きな落盤は起きていないそうです。

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千畳敷

ここまで秋芳洞正面入口から700mほどの場所まで見てきました。あと300mほどで、観光客が歩ける場所としてはゴールとなります。

秋芳洞のみどころ⑥/⑪ 千町田

秋芳洞の場所:山口県美祢市秋芳町秋吉

場所:正面入口から約500m

正面入口→青天井→長淵→百枚皿→洞内富士という順番で秋芳洞のみどころを見ることができました。洞内富士のある広庭という場所から数10mあるくと千町田と名付けられた場所につきます↓

これはどうも百枚皿とおなじようなしくみでできたと考えられる地形です。比較的 平らな岩の上に、石灰分がふくまれた地下水が、長い年月をかけて溜まったり乾いたりしながら、田んぼの畦にあたる部分(縁)をつくりあげたと考えられます。

 

この千町田をより美しく見るコツ?は、電灯に照らされている天井が、”田んぼ”にたまっている水に反射して見える場所をみつけることです。その場所をみつけると、”田んぼ”一枚一枚に明るい天井が映りこみます。なんとも幻想的な景色です。

古代に想いをはせる 天福寺 奥の院にある木造仏を訪ねる 大分県宇佐市

九州国立博物館で以前開催されていた「六郷満山展(ろくごうまんざんてん)」。大分県 国東半島の独特な山岳仏教文化を紹介する展示会でした。その展示会会場で『大分県 国東宇佐 六郷満山展 ~神と仏と鬼の郷~』という記念誌が販売されていました。とても興味があったので購入しました。

 

そのなかに大分県宇佐市にあったという「天福寺」というお寺の紹介がされています(P25)。現在もしっかりと建物が残されているお寺ならば、わたしはそれほど興味をもたなかったかもしれません。

 

わたしが天福寺に強く興味をもったのが、残されている奥の院が辺境の地といえる場所にあったためです。天福寺奥の院は、岩山の頂上ちかくに建立されました。その現在の姿は岩山のふもとからも見ることができます。その実際の写真が↓こちらです。

おわかりになりますか?写真のちょうど中央部分。山の上あたりにぽっかりと穴があいています。ここが天福寺 奥の院があった場所です。建立された当時は奥の院周辺は、もしかしたら樹々は伐られていたのかもしれません。現在はうっそうとしています。

 

奥の院から眺めた景色がこちらです↓ 記念誌でもこれに似た写真が紹介されており、わたしはとても惹かれてしまいました。天福寺は13世紀(鎌倉時代)につくられたとされる臨済宗の寺院で、この奥の院には不動明王像をはじめ木造仏が70軀も祀られていたそうです。実際にこの場所はいつかいってみたい。

実際にいってみました。場所は以下のとおりとなります。

 

場所:大分県宇佐市黒(Google マップ

座標値:33.497738,131.283297

 

驚いたことに、すでにGoogle map上でもこの場所は登録されていました。そのため容易にナビをすることができました。登録していただいたかたに感謝です。でもどうやって登山口を見つけるのか?どこに車を停めたらいいのか?迷う部分があったので以下記録してゆきます。

 

奥の院までの登山口はこちらです

座標値:33.496425,131.284121

車一台がとおれるほどの細い県道660号線沿いにあります。上の写真だと右上へのぼっている舗装された道路が登山口となります。車はこの先70mほどまで行くことはできますが、この先で転回する場所はありません。なぜかというと土砂崩れがひどく通行が困難となっているためです。↓このような感じです。そのため登山口ふきんに広くなっている場所があるため、ここで車を停めて歩いて登ったほうがよさそうです。

わたしは結局、車をバックして戻すことになりました。

 

この土砂崩れをおこしている手前で、天福寺奥の院参道入口が右手にみえます。標識もでていますし、石塔も立っているので迷うことはないと思います。

ここから奥の院まで直線距離で110mほど、高さ60mほどを登ってゆきます。急な石段が続いています。

階段をのぼりつめたら左へ折れ、すこし岩山を時計回りにまわりこむと奥の院がみえてきます。参道のきれいな状態からみて、おそらくここを整備されているかたがおられるのでしょう。とても歩きやすくありがたいです。

窟屋がみえてきました↓右側は切り立った崖です。転落に注意しながら歩を進めます。

窟屋へたどりつくと、ひとまずそこから見える景色に心をうばわれます。なんて美し景色でしょう。ピラミッドのような形の山が目立ちます。ご飯をもったような形から、地元のかたのなかにはおぐっぱん山と呼ぶかたもいます。このあたりの山からは石灰岩が採れます。おそらく浸食によりこのような綺麗なピラミッド型の山形となるのでしょう。

窟屋には木製の格子がかけられており、このなかに木造仏が多数保管されていました。格子のなかは3つの部屋に分かれていました。

中央には不動明王坐像が祀られていました。このお不動さまは永久年間(1113~1118年)の作と推定されています。

そしてその両側の部屋にはたくさんの木彫仏が保管されていました。↓こちらの写真はお堂に向かって左側の部屋の木彫仏です。

一方、こちら↓は右側の部屋の木彫仏です。

『大分県 国東宇佐 六郷満山展 ~神と仏と鬼の郷~』P25に、これらの仏さまについて紹介されています。

 

塑像は如来坐像、菩薩立像、木彫仏は如来形、菩薩形、天部形と尊格はさまざまで、制作当初より天福寺に安置されたのではなく、かつて近隣に存在した寺院に安置されていた仏像が寺院の廃絶後に集められたのだと思われる。

 

大分県立歴史博物館が近年、放射性炭素同位体という検査をおこなったそうで、その結果から、これらの仏さまは8~9世紀につくられたものと推定されています。

 

今回の天福寺探訪は、周囲の景色の美しさと天候の良さも手伝ってくれて、印象深いものとなりました。 

国東での庚申塔探訪 青面金剛の庚申塔 大分県杵築市片野

国東半島の庚申塔を調査し続けている小林幸弘氏にいただいた資料をもとに、杵築市の庚申塔を、2019年3月9日に探してみました。数か月ぶりの国東半島での庚申塔さがしです。今回、探した庚申塔は以下の場所にありました。

 

場所:大分県杵築市大字片野高須725-1-1

座標値:33.403259,131.6335412

庚申塔は「高須御堂」というお堂の裏手に祀られていました。

高須公民館に車をとめさせていただき、公民館から徒歩で東側にある高須御堂へ移動しました。270mほどの距離です。

高須御堂は樹々におおわれた丘の上にあります。そのためちょっとした坂道をのぼることとなります。↓下の写真だと左側に上へ登るちょっと荒れた道が確認できると思います。

この坂を登っていくと、とちゅうから階段に変わり、右手に「聞法道場 高須御堂」という看板がかかげられた建物がみえてきます。庚申塔のある場所へはさらに階段をのぼります。階段は横のしげみからの雑草におおわれはじめ荒れています。

階段をのぼりきると、庚申塔、石祠、石仏が祀られています。

庚申塔を正面から眺めます。一面六臂(ろっぴ)の青面金剛(しょうめんこんごう)が主尊。その両側に二童子を従えます。

青面金剛の足元には、見ざる言わざる聞かざるの三猿と二鶏が刻まれます。さらにその下には庚申講メンバーの名前らしき文字がかすかに確認できます。

 

青面金剛は一面六臂(1つの顔と6本の腕)と書きましたが、資料には一面四臂と掲載されています。どちらかはっきり判別できない部分があります。

 

細かく観察してみます。左手は、槍をもった1本の手とは別に、横に広げた2本の腕が明らかに見えます。右手側は、2本の腕が確実に確認できるのですが、もう1本の腕ははっきりとしません。なんとなく体の前で肘をまげた状態で保持しているようにも見えます。以上のような観察でとりあえず六臂と判断してみました。

二童子の表情はかすかに微笑んでいるようで柔和な印象を受けます。建立年月日は庚申塔の両側や背面、土台にも確認できませんでした。資料にも紀年は「なし 江戸後期」と紹介されています。

 

国東半島で庚申塔をさがすときは、「国東半島の庚申塔」や「大分県の青面金剛・庚申塔」を参照させていただいてます。これらのサイトでは詳細な場所が記載されているので、あまりまよわずに庚申塔を見つけることができます。

 

今回はおおまかな場所しか記載されていない資料をもとに探してみました。とても大変ですね。資料や庚申塔の写真を片手に地元のかたに場所を聞くしかないのですが、地元のかたでも庚申塔のことを知らない場合もあるので、そういう場合は地道に歩いて探し回るしかありません。

 

しかし探している間は、知らない町や村の、知らない景色を詳しく見て回ることができます。とても楽しい時間でもあります。庚申塔という媒体がなければ、なかなかこういう経験はできません。