日々の”楽しい”をみつけるブログ

福岡県在住。九州北部を中心に史跡を巡っています。巡った場所は、各記事に座標値として載せています。座標値をGoogle MapやWEB版地理院地図の検索窓にコピペして検索すると、ピンポイントで場所が表示されます。参考にされてください。

貴船神社の境内にまつられる三基の庚申塔群 福岡県飯塚市佐與

飯塚市(いいづかし)の佐與(さよ)という地区に貴船神社が鎮座します。貴船神社に三基の庚申塔がまつられていました。

①猿田彦大神、文化十一年戊十月吉日。

場所:福岡県飯塚市佐與

座標値:33.669716,130.723602

おそらく「文化十一年」と側面に刻まれていると考えられますが、「一年」の部分がはっきりと読み取れません。ただその下に「戌」という文字がみえるため、干支が甲戌(きのえいぬ)である文化十一年が造立年として刻まれていると考えました。西暦でいうと1814年です。

 

 

②猿田彦大神、明治十五年壬十二月十二日。庚申塔の裏側に造立年月が刻まれています。台座には庚申講に加入している方たちらしき名前が刻まれています。明治十五年は西暦1882年、干支は壬午(みずのえうま)です。

場所:福岡県飯塚市佐與

座標値:33.669753,130.723614

 

 

社殿にむかって左側に3番目の庚申塔がまつられています。

 

 

③謹請 猿田彦大神、元禄六癸酉年、正月吉日。元禄六年は西暦1693年、干支は癸酉(みずのととり)です。

場所:福岡県飯塚市佐與

座標値:33.669888,130.723648

 

厳島神社の境内にまつられる四基の庚申塔群 福岡県飯塚市鹿毛馬

鹿毛馬(かけのうま)という地区に厳島神社が鎮座します。厳島神社境内に四基の庚申塔が祀られていました。拝殿にむかって左側奥に庚申塔群はまつられています。

場所:福岡県飯塚市鹿毛馬

座標値:33.672703,130.735046

 

 

庚申塔群にむかって右側から順番にご紹介してゆきます。

 

①猨田彦大神、文政四年、巳四年吉日。文政四年は西暦1821年、干支は辛巳(かのとみ)です。

 

②猿田彦大神、文化八年、未十月吉日。文化八年は西暦1811年、干支は辛未(かのとひつじ)です。

 

 

③猿田彦大神、文化十癸酉歳、春二月□□。文化十年は西暦1813年、干支は癸酉(みずのととり)です。

 

④猿田彦大神、文化十□□□、(右側面にも記銘はあるようだが不明)。文字が風化してほとんど読みにくくなっています。文化十までは読み取れますが、その下の文字は読み取れません。文化十年代は十五年までありますので、西暦1813年~1818年の期間に造立された庚申塔だと考えられます。

 

河東天満宮の境内にまつられる庚申塔 福岡県宗像市河東

河東(かとう)天満宮の境内。三基の祠と、一基の地蔵菩薩とおもわれる石仏、一字一石塔、無銘の石塔数基とともに、庚申塔が一基まつられていました。

場所:福岡県宗像市河東

座標値:33.813957,130.539139

 

 

庚申尊天、元禄十五年、卯月吉日。元禄十五年は西暦 1702年、干支は壬午(みずのえうま)です。

 

公民館の近くにまつられる庚申塔群 福岡県飯塚市庄内元吉

飯塚市の元吉(もとよし)という地区にある元吉公民館。公民館の50mほど南西部に、四基の庚申塔らしき石塔群がまつられていました。ほとんどの文字は風化し確認できなくなっていましたが、かろうじて「庚申」という文字がいくつか読めました。

場所:福岡県飯塚市庄内元吉

座標値:33.661882,130.730618

 

元吉公民館の駐車場に車を停めさせていただき、徒歩で現地へと移動しました。

庚申塔群にむかって右から…

 

①(文字は読み取れず)

②庚申、(その他建立年などは読み取れず)

③謹請 庚申、□正、十□

④奉請 □□□□、元禄二年己巳□

かろうじて建立年が確認できた庚申塔が、むかって一番左側の庚申塔です。元禄二年、つまり西暦1689年で、「二」の文字の下に、おそらく「己巳(つちのとみ)」の文字が薄く確認できます。1689年の干支は己巳(つちのとみ)なので、刻まれている文字と整合します。

山守神社の参道入口にまつられる庚申塔 福岡県飯塚市鹿毛馬

山守神社の参道入口に庚申塔が祀られていました。

場所:福岡県飯塚市鹿毛馬

座標値:33.6797523,130.7332153

 

猿田彦大神、昭和閏戊申

「昭和閏戊申」。昭和に、閏年(うるうどし)で、干支(えと)が戊申(つちのえさる)の年を探してみます。

 

明治から平成にかけての干支一覧を調べたサイト▼

参照:http://www.nagaoka.jrc.or.jp/age.html

 

昭和の閏年を調べたサイト▼

参照:https://www.seirekigengou.com/gengou/showa/

 

すると、昭和43年(1968年)に閏年で、かつ、干支が戊申である年がありました。

 

 

以下は山守神社の参道と境内の様子です。舗装されていない山道をすすむと、途中で鹿毛馬神籠石(かけのうまこうごいし)が見えてきます。神籠石をのりこえて、少し登ると標高38.7mの地点に祠だけがまつられています。

 

鹿毛馬神籠石▼

手光(てびか)波切不動古墳 福岡県福津市手光

福津市を訪れたとき、目的地の近くにあった手光波切不動古墳(てびかなみきりふどうこふん)を訪ねました。Google mapで史跡というキーワードで検索すると、こちらの古墳が結果にあがり、古墳内部にまで入れることが紹介されていたため、訪れてみることにしました。

場所:福岡県福津市手光

座標値:33.770278,130.497960

 

入口付近の案内板によると、古墳内部の玄室(げんしつ)…つまり遺骸や副葬品をおさめている部屋…の高さが2mあるとのことです。古墳の入口である玄門(げんもん)から玄室のいちばん奥までの長さが10.8mの「横穴式石室」。横断面図を下に示します▼

羨道(せんどう)部分を写した写真です▼ 床面はコンクリートでできているのではないかと思うような平らな石(床石)が埋め込まれているようです。

玄室には江戸時代の終わりごろ…おそらく西暦1850年~1860年ごろ…に安置された波切不動尊がまつられています▼ 写真で確認してもわかりますが、玄室の奥側の幅が狭くなっています。このような構造の古墳は九州ではめずらしいそうです。

 

床石を備え玄室奥の幅が狭まる石室構造は、九州では通常みられな いものです。他地域の石室と比較検討した結果、畿内(大阪府など)の有力者の古墳に 採用された横口式石棉という埋葬施設の影響を受けたと考えられます。(参照:案内板)

▼波切不動尊

玄室(げんしつ)や羨道(せんどう)の壁を見てみると、巨大な直方体の石で構成されています。巨大な岩が、丁寧に積み重ねられて古墳がつくられているようです。岩はきれいに整えられているので、四角く加工されているようにみえます。

この岩は玄武岩(げんぶがん)という、火山から吹き出てきたマグマが固まった岩石で、黒っぽい色をしているものです。

案内板によると、この玄武岩は、手光波切不動古墳の西側約11km地点に浮かぶ「相島(あいのしま)」から運ばれてきたということです。

 

石室の石材は大部分が玄武岩で、天然で板状のものを利用しています。個々の重量は 約0.5~7tと推定できます。岩石学的調査の結果、これらの玄武岩石材は沖合10km にある相島(新宮町)から運んできたことがわかっています。(参照:案内板)

相島(あいのしま)を、地質図naviで確認してみると、たしかにアルカリ玄武岩・粗面玄武岩で構成されていることがわかります。古墳周辺(半径1~2km)には玄武岩が露出している場所はないようですが、古墳の北西約5kmの地点に「大峰山」という、これも玄武岩が含まれている山があります。大峰山(おおみねやま)は福津市の渡という地区にあります。

さらに大峰山の北東部にも2つ小山(丸山、森山)があり、これも山頂付近が玄武岩質となっています。こちらの福津市渡地区から、古墳の石材をもってきたと考えるのが自然な感じがしますが、厳密な検査では相島の玄武岩と、古墳の石材となっている玄武岩とが同一のものであるということで、整合性がとれたのだと考えられます。そうすると、相島から何トンもある岩を船で運んできたことになります。相当な労力であったと考えられます。

案内板では、古墳の築造年代は7世紀前半(西暦600年~650年)とされています。